ゴールデンボンバー『やさしくしてね』会社員応援ソングのいま

音楽はたいして聞いてもないうえに音痴で音感もない、さらに金爆について超ニワカなのでどうこう言うのはおこがましいなあと思うのですが。
以下長文。おそらく色々探せば参考文献はあると思うのですが、正確性はどちらかというと置いておいて、私の感想をとにかく述べたいという趣旨ですので、ご容赦ください。

昨日からゴールデンボンバー『やさしくしてね』を無性にハードリピートしてしまっています。
明るく叫べる曲調ながら歌詞には悲哀の色が濃く、しかし後ろ向きか前向きかでいうと前向きな姿勢が込められた、今の若者に寄り添う優しい歌だなと思います。

www.youtube.com

音楽に疎い私でもわかるくらいはっきりウルフルズオマージュです(よね?)。
明るい曲調と、ストレートなフレーズの連呼(「やさしくしてね」)。

ここ数日、ゴールデンボンバーのMVをYoutubeで10数曲観た私がみたところ、彼らの曲には基本的にオチがあります。MVがドラマ調で、歌詞にうたわれていることが具象化されています。甲斐性のない男が女に振られるとか、新時代に向かってメンバーが飛んでいくとか。
この『やさしくしてね』はサラリーマンの応援歌であり、MVでは次のようなストーリーがあります。

ボーカルのキリショー扮する主人公の男は、営業として日々労働しています。上司に怒られ、ふらふらになってミスをし、同僚から冷たい目で見られています。
しかし彼は、一生懸命働いている様子です。早朝から深夜まで、一人オフィスに残って業務をこなしています。25時も大幅に過ぎ、退社した彼は一人居酒屋で飲んだくれます。上司や同僚のことがフラッシュバックし、「やさしくしてね すぐ死んじゃうから」と叫びながら(サビ)、辞表を書きます。
店を出てアーケード街でふらつくキリショー。座り込みゴミ袋の山に埋もれるようにして「誰か僕を愛してくれよ」と熱唱します。
気が付くと朝。いつもならばとっくに出社している時間です。あわてて駆け出す彼。「やめてやる…」とつぶやきながら職場のドアを開ける。上司の机の前に立つ。上司が見つめる前でカバンやらスーツのポケットやら、書いたはずの辞表を探す。
あれ?無い。昨夜のゴミ捨て場に置いてきてしまっていたのです。
とりあえず出てきたんなら仕事しなさいとばかりに上司からファイルを渡され、いつも通りの作業にかかったキリショーは、やれやれとばかりですが、その顔はどこかすっきりしている。
ラストシーン。仕事がひと段落したのか、公園のベンチで一息つくキリショー。立ち上がりながら缶をゴミ箱にナイスシュート。それを確認して一人ちいさくガッツポーズ、また歩いていきます。おわり。

さてここで歌詞をみてください。→J-Lyric.netやさしくしてね 歌詞
曲調もMVも明るい。サビで出てくるキリショー以外のメンバー3人は笑顔で歌っているし、職場で書類をぶちまけたり居酒屋やゴミ捨て場で熱唱するのは、やけっぱちながら爽快感があります。
しかし、この歌詞だけ見ると、哀しい。ゆとり世代の若者(が主人公として想定されているのでしょう)は、やさしくされないとすぐ辞めるし、病むし、死んでしまうのです。代表曲『女々しくて』etcとも通ずるような、自虐スタイルでしょうか?

私は、『やさしくしてね』はただの自虐ではなく、リアルな若者の辛い現実を見つめながら、でも生きろよというメッセージが伝わる名曲だと思います。

なぜ『やさしくしてね』がリアルな若者の歌なのか?
ウルフルズが2000年(Wiki参照)にうたったサラリーマン応援歌である『明日があるさ』と比較してみましょう。
こちらが歌詞です。『やさしくしてね』と一緒に参照ください。→J-Lyric.net明日があるさ 歌詞
この2曲にはたくさんの違いがあり、時の流れを感じます。あまりに明確に違うので、鬼龍院さんは『明日があるさ』を意識しながら『やさしくしてね』を作ったのではないかと思ってしまうのですが、どうでしょうか(想像です)。

ではいきます。
まず年代。
明日があるさ』は先述のように2000年、『やさしくしてね』が2017年末に公開(Youtubeの公開日)と、17年もの隔たりがあります。

歌詞の方向性。
明日があるさ』は「若い僕には夢がある いつかきっと いつかきっと わかってくれるだろう」「明日がある 明日がある 明日があるさ」と朗らかに歌い上げます。対して『やさしくしてね』は「やさしくしてね」と繰り返し訴えどこか情けなさもぬぐえず、「誰か僕を愛してくれよ」と訴えます。楽観と悲観。

サラリーマンであるところの主人公は、どのようなポジションでしょうか。
明日があるさ』は中間管理職のようです。フランス人の上司がおり、敬語ができない部下がいて、「近頃の若いやつはとよく言うけれど 自分の頃よりだいぶまし」と過去を振り返ります。
『やさしくしてね』では、おそらく若手社員です。MVのようすは下っ端ぽい。「怒られ叱られ過ぎてる」し、「また年下に追い抜かれたようだのぅ」と嘆きます。後輩はいてもどうも立場は弱いようです。『明日があるさ』と比べ、職場に居場所があるかどうかもわからない危うさを感じます。
いま、“窮状にあるサラリーマン”の象徴としての、過酷な労働環境におかれた若手社員なのでしょう。

では、仕事への姿勢は?
明日があるさ』では「あせることないさ」「多めにみよう」「勉強しなおそう」「どうしてオレはがんばっているんだろう」と、現職で出来ることを見出せている、見出そうとしているようです。
『やさしくしてね』では「この世にも 会社にも これっぽちも 未練無いから」「もう頑張るの諦める」です。

先に退職した仲間は?
明日があるさ』は「会社をおこした奴がいる」のを見て焦らずいこうと言い聞かせます。『やさしくしてね』は「傷舐め仲間、ついに辞めて消ゆ」です。「消ゆ」とは、儚い表現です。おそらく消息も知れないのでしょう。会社経営も楽でないと思いますが、一旗あげた元同僚をどこか羨む『明日があるさ』とはかなり違います。

家族との関係は?
明日があるさ』では「どうしてオレはがんばっているんだろう 家族のため?自分のため?」と自問しています。「答えは風の中」ですが、最初に浮かんでくる選択肢が「家族のため」。結婚しているのでしょうか。子供もいるのでしょうか。
『やさしくしてね』は「友よ 家族よ 同僚よ 誰か味方になってくれよ」、さらに「人でもAIでも何でもいいよ 誰か味方になってくれよ」と追い打ち。家族どころか友達も、人間たるものとの関係がネガティブなもののようです。ちなみにこの「家族」は(ただの印象ですが)配偶者でなく、親兄弟かもしれません。

また『明日があるさ』は「明日があるさ」という主題を繰り返しますが、『やさしくしてね』は「明日の朝もう起きるのが怖い」のです。「明日」についてのイメージがまったく違う。

ぜんたい的に、「昔のおじさんは先のことがわからないなりにまだエネルギーがあるのに対し、今の若者は孤独で、下手したら命すら落としてしまう」という対比になっているのではないか、と私は思います。
(『やさしくしてね』をあげる流れで『明日があるさ』をdisるつもりはありません。今回『明日があるさ』も改めて聴いてみて、今でも素直に心に届くとても良い歌だと思いました)

明日があるさ』との比較を通して、『やさしくしてね』の歌詞は働く若者の悲壮な今を描いていることがわかりました。

じゃあ、なんでそれが応援歌になるのさ?ってことですね。この捻りというのが、「ゴールデンボンバーらしさ」「鬼龍院翔らしさ」なのかなと、私は感じています。

『女々しくて』etcの「女に振られる男」系の曲が総じてそうなのかなーと思うのですが、ゴールデンボンバーの曲の主人公は、弱さをさらけ出し、情けない姿を見せて笑いに変えています。
それのサラリーマン版が、『やさしくしてね』なのですね。

「やさしくしてね すぐ辞めちゃうから」なんて、なかなか歌にできないと、私は思います。私もゆとりゆとりと言われる世代ですが、初めて聴いたとき、ちょっとギョッとするというか、そんなことを叫ぶなんてただの居直りで、擁護できない、ひょっとしたら迷惑な奴なのに……何がしたいんだこの歌は? と思ったんです。

じっさい、この歌のなかで主人公を“擁護”できる要素ってあまりないと思うんですよね。「やさしくしてね」「愛してくれよ」っていう要求と、「もう頑張るの諦める」「もう向き合うのをやめる」っていういわば逃避と、「愛も友情も成功も これっぽっちも希(のぞ)めないから」っていう失望。
MVではとにかく一生懸命働いてるっていうのがわかるので、そこは加点と思いますが。どうにも不器用さがにじみ出てる。

でもその“擁護”しないってことに、不思議と救われるんですよね。
「逃避も、弱さも、滑稽だけど悪いことじゃない」と暗に言ってくれてると思う。

それだけじゃない。「逃げないことも悪いことじゃない」と言ってくれてると思う。MVの主人公は働き続けることを選ぶから。「辞めるのも辞めないのも自分次第」ってことなんだろう。
この「自分次第」もポイントで、「自分」に強さを求めないのが、良い。
MVの彼は、うっかり辞表を置いてきてしまったんですね。まあいっか、と思って働きだしたんです。なぜまあいっか、なのかははっきりは分からない(恐らく、遅い出社に上司が怒らずに、彼が今日も働くということを促したからなじゃないかと思うのですが)。そういう、叫び出しそうな辛さを同居させながら、なだめながらやっていくって、結構リアルだと思います。

まとめると、「よく揶揄されるみたいに若者はすぐ辞めちゃうけれど、それは見方によっては滑稽だけれど、弱いことは悪いことじゃない。逃げるも逃げないも自分次第。辛いときは叫んでもいい。がんばれ」ってことじゃないかと思うのです。そして、そういう励まし方をしてくれるゴールデンボンバーは信頼できると感じるのです。ありがとうゴールデンボンバー


(最後に。長時間労働、ダメゼッタイ!)

 今日考えたこと。
・人と人がコミュニケーションをとるとき、互いに全人格的に関わることはできない。
・例えば子どもを産むように、私は言葉によって何かを残すつもりでいる。

 

 ひとつめについて。
 この話をするとき、私は『おそ松さん』の1期23話を思い出している。「もしも皆が顔も言葉も立場も同じだったら、世界には底なしの穏やかさと安心感があるだろう」という話。素晴らしい世界に一旦は安住しそうになるも、最後には外の世界(通常の、誰もが違う人格である世界)へ戻るというお話。
 また、私がこれまで他人とどう関わってきたかということを思い出す。あえて簡単にいえば、私は人とつながるときに「0か1か」がありえると無自覚に思っていたのではないか(少なくとも2016年の秋ごろまでは)。だから今、人間の価値観はそれぞれ違うし、互いに傷つけ合いもする可能性があるということに驚いているのではないか。私が理解できない人間にも彼なりの愛情があり、「わかる」の一言だけで感動を共有できるような友人でも、よくよく聞いてみると互いの感じたことが折り合わないことがある。
 私がそれに気づいていった(昔は気づかなかった)のは、もともと「人格」に対するイメージが貧困だったことが原因のひとつだと思われる。他人の人生や価値観の尊重すべき部分や、その日ごとの機嫌ひとつに表れる「その人らしさ」といったものにまったく無頓着であったのだ。おかげで事故を起こしたわけだが。その事故の教訓のおかげで、私は「全人格的な関わり」を信じることが無邪気なことだと思うきっかけを得たのだった。
 思うに、大学生の頃に私は「底なしの穏やかさと安心感のある世界」を信じていたのではなかったろうか。それは幸せなことであったし、必要なことであったが、今私は自分が変わる必要性を感じている。

 ふたつめについて。
 一年前、二年前と比べて、私の感受性は増幅していると感じる。また六年前と比べて人生の可能性はある程度狭まっているだろう。
 言いたいことはふつふつと煮詰めてはいるのだが、それを表現するという気概が貧弱である。べつに誰にも求められていない、私が生活に満足し、消費を続けるだけで文句は言われないはずだ。だのに今日のように脳のどこかの具合が悪い日は、満たされない気持ちがある。私のことをいつか言葉にして残していきたい、価値を証明したい、そうすることで報われる気がしている。

 

千野帽子『人はなぜ物語を求めるのか』は、一年半ほど前から心に留めている本で、私自身がどのように人生を解釈するのかということを投げかけてくれています。

 

真鍋昌平『闇金ウシジマくん』3巻172頁について

真鍋昌平闇金ウシジマくん』3巻172頁(「ゲイくん」編)が好きだ。起承転結でいう「転」や「結」のような見せ場ではなく、「承」なのだけれど、私はこの頁に惹きつけられた。

夏のさわやかさ、生活感、フリーターたちの自由な時間感覚といった「快」「陽」「穏やか」な場面づくりがここにある。同時に寂しさもある。後者のスパイスが効いている。そこに魅力を感じた。どういうことか。


「ゲイくん」編は基本的に写真家志望のゲイ「ゆーちゃん」の視点を借りてストーリーがすすんでいく。172頁においてもそうだ。ただし、少しずれている。
1コマめでは、ゆーちゃんの居るベランダから地上を見下ろすアングルだが、ゆーちゃんの後頭部が描かれているので、ゆーちゃん自身の視点ではない。
2コマめでは少し様子が変わる。ここではゆーちゃんの背中、洗濯物のTシャツ、青空と太陽の光が描かれる。これはいわば「ゆーちゃん側」の世界・生活圏が描かれたコマではあるが、ゆーちゃん自身は洗濯物も空も見ていない。もちろん自分の背中も見えていない。低いアングルから煽るように見せるコマであり、これは誰の目線でもない。神の視点である。1コマめではまだゆーちゃんの視点だという判定に入りそうだが、2コマめでは1コマめと地続きの場面でありながら神の視点に変化しているのだ。その切り替えが良い意味での違和感を生んでいる。
172頁2コマめは、173頁のような、4人の行動を引きの画面で示すコマとも違う役目がある。173頁はあくまで4人を平等に見る俯瞰の視点だが、172頁2コマめは明らかに「ゆーちゃん寄りの神の視点」なのだ。

「あけっぴろげなようでいて誰もみていない景色」を見せたこのコマは、何気ない会話とは裏腹な気持ち・不安等をゆーちゃんが抱えているということを暗示していると私は考える。単純に「夏のイイ天気を描写するコマ」では無いのである。ここにはしっかりとゲイくんたちの生活感と、ゆーちゃんの複雑な人生が載っているのである。

 

自分の人生を象徴する漫画4作品

ハッシュタグ #自分を作り上げた漫画4選 の派生として、私の人生を象徴する漫画4作品について語ります。

私の思考や感性に変化を与えたというものもありますし、当時の私にとって強く共感できたというものもあります。

漫画は私の人生に影響を与えたメディアのひとつですが、特に、オタク的感性の下地が養われた幼少期と、リアルで漫画愛を熱心に語れる機会を得た昨年~現在における存在感は大きいです。

人生の時々で夢中になった作品や一押しの作品はありますが、自分の現在地にぴったりはまったり、次の場所へ連れていってくれたりする作品というのは、稀有なものです。


9歳の私にとって人生で最大の衝撃が『ブラック・ジャック』の読書体験でした。

 担任の先生が学級文庫として手塚漫画を教室に設置していたのがきっかけ。それまで私が触れたことのないリアリスティックな漫画でした。
信条を以って仕事を成し、法外な対価を要求し、清算しなければならない過去を背負っている。主人公でありながら違法行為を行い時に人を切り捨てる冷徹さ。人命や自然の尊さを知り、実際にそうしたものを守る力。その存在の裏腹さ。
私はこれほどに誇りを持ち、倫理観のせめぎ合いを生きる孤独な人物を知りませんでした。彼の物語は、苦しみと愛のドラマでした。私もどこかで知っていたけれど言葉にしたこともないし誰とも共有したこともない種類の苦しみ、あるいは、私が知らなかったけれどもこの世のどこかに存在する矛盾、そういうものがここに表現されていました。
はじめて、フィクションとリアルの境がなくなるかのような勢いで漫画に夢中になった頃でした。ゴリゴリに情操教育されました。


 高校生の時には、人と違うものを好きになりたがっていたと思います。

 『おやすみプンプン』は小学生編、2巻の廃工場を冒険する話?が最も好きです(作品の後半のほうはあまり印象にない)。
家、親、学校、先生、友達、クラスメイトがほぼイコール世界の全ての頃。また私の場合は塾や習い事がほぼ無く、街に遊びにいくこともなく、人付き合いもおっくうで、フィールドが狭い側(と言ってよいと思う)に属する思春期でした。浅野いにおの作品は周囲に覚える気持ち悪さ、自分という存在の居心地悪さをうまく表現されていると思います。どこかおかしな大人たちや、プンプンを狂わせる愛子ちゃん、不安でいっぱいだけれどきらきらした世界にノスタルジーを感じるのです。


 テイストは全く違いますが『げんしけん』に憧れたのも『プンプン』と近い時期だったと思います。

げんしけん(1) (アフタヌーンコミックス)

げんしけん(1) (アフタヌーンコミックス)

 

 『げんしけん』に憧れて大学で文芸部に入りました。以上。

一行じゃあんまりなのでもう少し言うと、笹原と荻上のカップル成立までの過程、および笹原はじめてのコミケの描写に当時憧れました(今読んだら、班目の片思いももっと違う見方になるかも)。「私もこうなりたい」って思ってましたね。
上記2作品とテンションは違うけれども、思い入れは同様に深いです。卑近な憧れを生んだのも、木尾士目のコミュニケーション描写が優れているからだと思います。キャラの抱えた卑屈さや泥臭さを否定しないままに成長というか変化を生み出すところが、素直に受け入れられた要素かもしれません。行動すれば世界は開けるし楽しく付き合える人たちはいるよっていう明るいメッセージを受け取ったと思います。多分。
大学に入ってから人生変わりました。

 いまは28歳で、ちゃんと生活していることに驚くとともに、自分にはまだまだ可能性があるっていう希望&不安がちらつきながら、(友人関係も仕事関係も)人と付き合いながら生きていくんだってことの実感が出てきているところで。

東京心中(上) (EDGE COMIX)

東京心中(上) (EDGE COMIX)

 

 『東京心中』の安定感がしっくりきます。好きな人と生活していくっていうことと、映画を求めてもがき続けるってことを、適切な温度感で描いてくれる。肩の力は抜いて良いけど自分の大切なものは忘れない。愛しさや発見は日常のなかにある。宮坂と矢野さんが築いていく生活、こういうものが在るならば、私の人生もきっと悪くないと思える。このまま自分が変わらないんじゃないかって恐れとか、もう一生何もしたくないって怠惰とか、そういうものが少し小さくなる気がする。

以上4作品でした。
素晴らしい漫画(や色んなフィクション)を見出すために生きている。これからも素敵な出会いがありますように。

2018年の6月がもうすぐ終わる。

落ち着いているといえば落ち着いているが、目標に対して足踏みしているような、そもそも目標を目標ですと言い切れるような胆力が私にあるのか、そんな迷い含みの日々だ。

 

これでも毎週末に人に会っているし、また新しい趣味も始めたし(フィットネスジムに入会した)、悩んでいるってこと自体が、いま私が生きている意味だと思いたい。

 

ものごとに最終的で絶対的な善し悪しが無いならば、人生に意味を見出すのはあくまで人間でしかないならば、私は気持ちの強さを試されているのかもしれない。

6月7日放送のカンブリア宮殿で、クリーニング店を営業する「東田ドライ」がとりあげられていた。

無料サービスや宅配対応サービス、技術力や顧客対応など、消費者から選ばれる理由がわかりやすい放送内容だった。

 

そのなかで私の印象に残ったものは、現社長の息子である専務が経営に向き合い始めた時のエピソードだった。
幸せだった新婚旅行、こんな旅行にもう一度行きたい、と思ったときにふと家業の業績が気になり、決算書を取り出したことがきっかけだとか。

私はこの話を、個人の実感に根付いた、非常に腑に落ちる話だと思った。同時に、「家業が安定してなきゃ俺やばい」という感覚と、新しい事業モデルを興して成功させるという実行力及びそこで割かれるエネルギーとの間には、並々ならぬ努力や継続、運までもが存在するということも想像できた。

自分の人生を豊かにしたいという気持ちには嘘がない。それが出発点にあることを表明するという人には信頼できるものがあると思った。
と同時に、現実を変えるには勉強や努力や気持ちの強さが必要だ。それが実行できるということは容易くないし恵まれてもいると思った。
いつか私もあんな「成功者」になることができるだろうか。

物語の未来に起きる出来事を予知的に示す方法を「フラッシュフォワード」もしくは「先説法」という。

 

たとえば福島聡『バララッシュ』第一話では、メインキャラクターである宇部と山口がアニメ映画の作画監督と監督となって夢を叶えた未来が描かれる。話数タイトルも「大団円」と、この話で示されたビジョンがまさに物語の結末部分であることを指している。

第二話以降では舞台は(第一話時点からみて)過去に遡り、高校生の宇部と山口が登場する。まだアニメの仕事を志す以前の彼らだ。以降は時系列にそって展開していく。

第一話でフラッシュフォワードを用いた未来像が示されることで、未熟な高校生である二人がどのように成長し、困難を乗り越え、成功を掴むのか、というその過程に読者の興味を集中させることができる。

また、「大団円」があらかじめ約束されていることで、大きな夢を叶え仕事を成し遂げるカタルシス、というポジティブな気風が作品の底に用意される。

 

また別の作品を紹介しよう。TAGRO『別式』第壱話冒頭でもメインキャラクター、類(るい)と切鵺(りや)の様子が描かれるが、こちらは決闘シーンである。類が切鵺に斬りかかるため走り寄るところで場面転換が行われ、その先は示されていない。フラッシュフォワードに加えて、「クリフハンガー」という、結末を宙づりにする手法が併せて用いられている。
決闘シーンでは、「かつての仲間はもういない」など、思わせぶりな台詞が発せられるが、この時点では意味する内容はわからない。類と切鵺がもともと仲間であったが、なんらかの裏切り行為があり、その関係が壊れてしまったということが窺える程度である。場面転換以降は日常シーンを交えつつ、類や切鵺を含むメインキャラクターの背景が少しずつ明かされていく筋書となっている。
読者は、いつかは決闘することになる二人がどのような親交を深め決裂したのか、最後には彼女らがどうなってしまうのか、ということに留意しつつ読み進めることになる。女子高生のように和気あいあいとした交流が描かれても、なんとなく不穏な空気を完全に払拭することはできなくなる。

以上、2作品を紹介した。フラッシュフォワードは作品の雰囲気づくりにおおきく関わってくる手法であることが言えるだろう。読者は、最初に語られた場面がいずれは訪れるということを念頭に物語を読み解くからだ。また、読者の興味の重点をどこに置くか、先に示された未来像なのかもしくはそこに至る過程なのか、ということも操作可能だ。これもこの手法の特徴である。