真鍋昌平『闇金ウシジマくん』3巻172頁について

真鍋昌平闇金ウシジマくん』3巻172頁(「ゲイくん」編)が好きだ。起承転結でいう「転」や「結」のような見せ場ではなく、「承」なのだけれど、私はこの頁に惹きつけられた。

夏のさわやかさ、生活感、フリーターたちの自由な時間感覚といった「快」「陽」「穏やか」な場面づくりがここにある。同時に寂しさもある。後者のスパイスが効いている。そこに魅力を感じた。どういうことか。


「ゲイくん」編は基本的に写真家志望のゲイ「ゆーちゃん」の視点を借りてストーリーがすすんでいく。172頁においてもそうだ。ただし、少しずれている。
1コマめでは、ゆーちゃんの居るベランダから地上を見下ろすアングルだが、ゆーちゃんの後頭部が描かれているので、ゆーちゃん自身の視点ではない。
2コマめでは少し様子が変わる。ここではゆーちゃんの背中、洗濯物のTシャツ、青空と太陽の光が描かれる。これはいわば「ゆーちゃん側」の世界・生活圏が描かれたコマではあるが、ゆーちゃん自身は洗濯物も空も見ていない。もちろん自分の背中も見えていない。低いアングルから煽るように見せるコマであり、これは誰の目線でもない。神の視点である。1コマめではまだゆーちゃんの視点だという判定に入りそうだが、2コマめでは1コマめと地続きの場面でありながら神の視点に変化しているのだ。その切り替えが良い意味での違和感を生んでいる。
172頁2コマめは、173頁のような、4人の行動を引きの画面で示すコマとも違う役目がある。173頁はあくまで4人を平等に見る俯瞰の視点だが、172頁2コマめは明らかに「ゆーちゃん寄りの神の視点」なのだ。

「あけっぴろげなようでいて誰もみていない景色」を見せたこのコマは、何気ない会話とは裏腹な気持ち・不安等をゆーちゃんが抱えているということを暗示していると私は考える。単純に「夏のイイ天気を描写するコマ」では無いのである。ここにはしっかりとゲイくんたちの生活感と、ゆーちゃんの複雑な人生が載っているのである。

 

自分の人生を象徴する漫画4作品

ハッシュタグ #自分を作り上げた漫画4選 の派生として、私の人生を象徴する漫画4作品について語ります。

私の思考や感性に変化を与えたというものもありますし、当時の私にとって強く共感できたというものもあります。

漫画は私の人生に影響を与えたメディアのひとつですが、特に、オタク的感性の下地が養われた幼少期と、リアルで漫画愛を熱心に語れる機会を得た昨年~現在における存在感は大きいです。

人生の時々で夢中になった作品や一押しの作品はありますが、自分の現在地にぴったりはまったり、次の場所へ連れていってくれたりする作品というのは、稀有なものです。


9歳の私にとって人生で最大の衝撃が『ブラック・ジャック』の読書体験でした。

 担任の先生が学級文庫として手塚漫画を教室に設置していたのがきっかけ。それまで私が触れたことのないリアリスティックな漫画でした。
信条を以って仕事を成し、法外な対価を要求し、清算しなければならない過去を背負っている。主人公でありながら違法行為を行い時に人を切り捨てる冷徹さ。人命や自然の尊さを知り、実際にそうしたものを守る力。その存在の裏腹さ。
私はこれほどに誇りを持ち、倫理観のせめぎ合いを生きる孤独な人物を知りませんでした。彼の物語は、苦しみと愛のドラマでした。私もどこかで知っていたけれど言葉にしたこともないし誰とも共有したこともない種類の苦しみ、あるいは、私が知らなかったけれどもこの世のどこかに存在する矛盾、そういうものがここに表現されていました。
はじめて、フィクションとリアルの境がなくなるかのような勢いで漫画に夢中になった頃でした。ゴリゴリに情操教育されました。


 高校生の時には、人と違うものを好きになりたがっていたと思います。

 『おやすみプンプン』は小学生編、2巻の廃工場を冒険する話?が最も好きです(作品の後半のほうはあまり印象にない)。
家、親、学校、先生、友達、クラスメイトがほぼイコール世界の全ての頃。また私の場合は塾や習い事がほぼ無く、街に遊びにいくこともなく、人付き合いもおっくうで、フィールドが狭い側(と言ってよいと思う)に属する思春期でした。浅野いにおの作品は周囲に覚える気持ち悪さ、自分という存在の居心地悪さをうまく表現されていると思います。どこかおかしな大人たちや、プンプンを狂わせる愛子ちゃん、不安でいっぱいだけれどきらきらした世界にノスタルジーを感じるのです。


 テイストは全く違いますが『げんしけん』に憧れたのも『プンプン』と近い時期だったと思います。

げんしけん(1) (アフタヌーンコミックス)

げんしけん(1) (アフタヌーンコミックス)

 

 『げんしけん』に憧れて大学で文芸部に入りました。以上。

一行じゃあんまりなのでもう少し言うと、笹原と荻上のカップル成立までの過程、および笹原はじめてのコミケの描写に当時憧れました(今読んだら、班目の片思いももっと違う見方になるかも)。「私もこうなりたい」って思ってましたね。
上記2作品とテンションは違うけれども、思い入れは同様に深いです。卑近な憧れを生んだのも、木尾士目のコミュニケーション描写が優れているからだと思います。キャラの抱えた卑屈さや泥臭さを否定しないままに成長というか変化を生み出すところが、素直に受け入れられた要素かもしれません。行動すれば世界は開けるし楽しく付き合える人たちはいるよっていう明るいメッセージを受け取ったと思います。多分。
大学に入ってから人生変わりました。

 いまは28歳で、ちゃんと生活していることに驚くとともに、自分にはまだまだ可能性があるっていう希望&不安がちらつきながら、(友人関係も仕事関係も)人と付き合いながら生きていくんだってことの実感が出てきているところで。

東京心中(上) (EDGE COMIX)

東京心中(上) (EDGE COMIX)

 

 『東京心中』の安定感がしっくりきます。好きな人と生活していくっていうことと、映画を求めてもがき続けるってことを、適切な温度感で描いてくれる。肩の力は抜いて良いけど自分の大切なものは忘れない。愛しさや発見は日常のなかにある。宮坂と矢野さんが築いていく生活、こういうものが在るならば、私の人生もきっと悪くないと思える。このまま自分が変わらないんじゃないかって恐れとか、もう一生何もしたくないって怠惰とか、そういうものが少し小さくなる気がする。

以上4作品でした。
素晴らしい漫画(や色んなフィクション)を見出すために生きている。これからも素敵な出会いがありますように。

2018年の6月がもうすぐ終わる。

落ち着いているといえば落ち着いているが、目標に対して足踏みしているような、そもそも目標を目標ですと言い切れるような胆力が私にあるのか、そんな迷い含みの日々だ。

 

これでも毎週末に人に会っているし、また新しい趣味も始めたし(フィットネスジムに入会した)、悩んでいるってこと自体が、いま私が生きている意味だと思いたい。

 

ものごとに最終的で絶対的な善し悪しが無いならば、人生に意味を見出すのはあくまで人間でしかないならば、私は気持ちの強さを試されているのかもしれない。

6月7日放送のカンブリア宮殿で、クリーニング店を営業する「東田ドライ」がとりあげられていた。

無料サービスや宅配対応サービス、技術力や顧客対応など、消費者から選ばれる理由がわかりやすい放送内容だった。

 

そのなかで私の印象に残ったものは、現社長の息子である専務が経営に向き合い始めた時のエピソードだった。
幸せだった新婚旅行、こんな旅行にもう一度行きたい、と思ったときにふと家業の業績が気になり、決算書を取り出したことがきっかけだとか。

私はこの話を、個人の実感に根付いた、非常に腑に落ちる話だと思った。同時に、「家業が安定してなきゃ俺やばい」という感覚と、新しい事業モデルを興して成功させるという実行力及びそこで割かれるエネルギーとの間には、並々ならぬ努力や継続、運までもが存在するということも想像できた。

自分の人生を豊かにしたいという気持ちには嘘がない。それが出発点にあることを表明するという人には信頼できるものがあると思った。
と同時に、現実を変えるには勉強や努力や気持ちの強さが必要だ。それが実行できるということは容易くないし恵まれてもいると思った。
いつか私もあんな「成功者」になることができるだろうか。

物語の未来に起きる出来事を予知的に示す方法を「フラッシュフォワード」もしくは「先説法」という。

 

たとえば福島聡『バララッシュ』第一話では、メインキャラクターである宇部と山口がアニメ映画の作画監督と監督となって夢を叶えた未来が描かれる。話数タイトルも「大団円」と、この話で示されたビジョンがまさに物語の結末部分であることを指している。

第二話以降では舞台は(第一話時点からみて)過去に遡り、高校生の宇部と山口が登場する。まだアニメの仕事を志す以前の彼らだ。以降は時系列にそって展開していく。

第一話でフラッシュフォワードを用いた未来像が示されることで、未熟な高校生である二人がどのように成長し、困難を乗り越え、成功を掴むのか、というその過程に読者の興味を集中させることができる。

また、「大団円」があらかじめ約束されていることで、大きな夢を叶え仕事を成し遂げるカタルシス、というポジティブな気風が作品の底に用意される。

 

また別の作品を紹介しよう。TAGRO『別式』第壱話冒頭でもメインキャラクター、類(るい)と切鵺(りや)の様子が描かれるが、こちらは決闘シーンである。類が切鵺に斬りかかるため走り寄るところで場面転換が行われ、その先は示されていない。フラッシュフォワードに加えて、「クリフハンガー」という、結末を宙づりにする手法が併せて用いられている。
決闘シーンでは、「かつての仲間はもういない」など、思わせぶりな台詞が発せられるが、この時点では意味する内容はわからない。類と切鵺がもともと仲間であったが、なんらかの裏切り行為があり、その関係が壊れてしまったということが窺える程度である。場面転換以降は日常シーンを交えつつ、類や切鵺を含むメインキャラクターの背景が少しずつ明かされていく筋書となっている。
読者は、いつかは決闘することになる二人がどのような親交を深め決裂したのか、最後には彼女らがどうなってしまうのか、ということに留意しつつ読み進めることになる。女子高生のように和気あいあいとした交流が描かれても、なんとなく不穏な空気を完全に払拭することはできなくなる。

以上、2作品を紹介した。フラッシュフォワードは作品の雰囲気づくりにおおきく関わってくる手法であることが言えるだろう。読者は、最初に語られた場面がいずれは訪れるということを念頭に物語を読み解くからだ。また、読者の興味の重点をどこに置くか、先に示された未来像なのかもしくはそこに至る過程なのか、ということも操作可能だ。これもこの手法の特徴である。

『メタモルフォーゼの縁側』

『メタモルフォーゼの縁側』のタイトルが素晴らしいよって話をします。

メタモルフォーゼとは、変身・変態という意味です。

作品中で描かれているのは、ふたりの人間関係(身近な男性や家族、友人との関係)です。雪は3年前に夫を亡くしており、うららは趣味を共有する友人を持たず幼馴染の男子とも以前ほど親密ではありません。そんななか、ふたりはどこかで寂しさを感じています(この描写がとてもとても良いのですが、その話はまた今度)。

ところが、BLを介した意外な出会いによって、わくわくする出来事が次々と起こります。年齢が離れた二人が友人となるという奇跡が起きることで、それぞれの生活にもドラマが発生するのです。

彼女らの出会いによって起こる出来事は、高揚感があるもののあくまで穏やかさを基調としています。タイトルの「縁側」の暗示するものは「日常」「穏やかさ」だと思います。
「メタモルフォーゼの縁側」は、自己が変化するための瑞々しい生命力と、地に足のついた穏やかな生活力の両方を感じさせる、この作品にぴったりのタイトルだと思います。

 

補足 2巻以降の展開の予想ですが、1巻では二人の日常が変化したところまでですので、それぞれが他の人と新しい人間関係をつくっていくことになるだろうと思います。期待しています。

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批評を勉強したい…ということで、廣野由美子『批評理論入門 『フランケンシュタイン』解剖講義』を参考にしています。
本記事と関連する同書の項目としては「イメジャリー」「反復」になるかと思います。

サンボマスター世界はそれを愛と呼ぶんだぜ』のサビが好きだ。とくに「今までの過去なんてなかったかのように歌い出すんだ」という部分。

おそらくこの「過去」は「辛い過去」というニュアンスがあると思うけれど、明示されていないぶんだけ広がりがある。どのような悲しみ、辛みを読みこむかは聴き手しだいだ。「新しい日々をつなぐのは新しい君と僕なのさ」という部分にもあるように、「昨日」と「明日」を区切るためのエネルギーがほとばしっている。

また、「歌い出すんだ」についても、何を歌うのかについては明示されておらず広がりがある。ここでは歌いだしの「君の目の前であたためてた事話すのさ」の「話す」と「歌う」が対比されている。
「話す」よりも「歌う」のほうが、祈りのニュアンスが入っていてエモーショナルだ。

 

 僕たちは日々、明日にむかって祈りながら生きている。それをサンボマスターが鼓舞してくれる。