柳沼くんと六見先輩の二人で恋バナしてほしい

柳沼くんとは『大上さん、だだ漏れです。』の柳沼慎一郎、六見先輩とは『私がモテてどうすんだ』の六見遊馬のことを指す。共に私の推しである。

思うに、キャラクターはあくまで架空の存在であるけれども、同時に、人間っぽい生身さを見出せるところにグッとくるものだと思う。

柳沼くんも六見先輩も、ファンタジーな存在である。二人とも作中の重要人物であるし、ヒロインが好きで、お付き合いできることが運命づけられた特権的なポジションに居る。また二人ともの特徴としては、天然属性があり周囲からは性欲無さそうに見られそうなのもファンタジックで良い。

ファンタジックで性欲なさそうな存在であるにも関わらず、二人ともに葛藤や欲といった人間らしさも描かれる。
共通するのは、ヒロインに惹かれるようになった後で自身の恋心を「これが恋だ」と追認識する初心さである。はじめての感情のゆらぎに対して後から名づけるというその青春のプロセスの甘さに称賛を送りたい。
個別でも言及したい。柳沼くんは作中で何度かヒロインに手を伸ばす。大上さんが悩まされている下心と同様に、「好きな人に触りたい」という衝動が彼を動かし、そして戸惑いをもたらしているという事に再びブラボーと言いたい。
六見先輩はひとたび付き合ってしまえば基本のスキンシップには躊躇ない(裏表のない率直さに王子様の風味が添えられて、それはそれで良い)が、兄との関係をはじめ、色々な葛藤を経ていることは10巻以上の物語で描かれた。

まあ要するに、格好いい王子様であり、かつ思春期の男子であるということが「架空かつ人間」らしきところであり、“良い”のである。
そんな二人の妖精ぶりと(多分に女子の妄想から生成された)男性ぶりをより引き立てるのが、例えば、「二人で恋バナ」だと思うのである。生々しい話とか「女の子って不思議だね」的な話とかしてたら超可愛いと思うのである。柳沼くんと六見先輩の二人で恋バナしてほしい。

読むことの意識が変わった話

ここ数年で、ものを読む姿勢が変わったというか、いろいろ感ずることが多くなった。
なぜかというと、おそらく、私自身が色々経験するようになったからだと思う。仕事も仕事以外のことも、厳しいことも含めて。

たとえば数年前の10月に、天神のパルコで漫画を買って読んだことをよく覚えている。史群アル仙の『臆病の穴』とかを読んだ。作品の内容よりも、読んだということ自体が印象に残っている。
なぜかというと、その時は主催のイベントが近かったから。プレッシャーに追い詰められるように、いわば現実逃避のために読んだ。当時は人の間にたってものごとをすすめることを初めてやっていたので、私は困惑していた。

学生の時には本当に困ったことがあったら話を聞いてくれる人がいたけれど、自分や周りが歳を取って生活のうちに労働の割合が高くなってくると、なんでもすぐに頼るわけにもいかない。それに守秘義務もある。
漫画を買って読むという行為はいつもどおりだったけれど、気持ち的には切羽詰まっている状況だった。

(漫画を買ってその足で飲食店に入って読んだ)店を出るころには不安は落ち着いていた。漫画を読んでも何も問題は解決しないといえばそうだけれども。創作物は人のエネルギーによって作られている。それに触れるというだけで、気持ちを切り替えられることもある。

あの時に初めて私は、純粋に「読む」ということ自体に救われたという感覚があった。

新しいことを経験していると、現実からの情報も創作物からの情報も、刺激に敏感になる。
色んなことをやってみることで、「読む」ということへの感覚が変わってきたのなら、それが収穫だと今は思っている。

2017年媒体まとめ(漫画とか)

新年明けました。2018年もよろしくお願いいたします。

画像は、昨年読んだ漫画リストです。
(画像右上クリックでポップアウトします…)*1

2017年に発行された漫画ではなく、あくまで「私が2017年に読んだ漫画」です。


2017年はだいたい100冊弱、45作家読みました。うち28作家は初読。2016年(27作家、うち7作家が初読)と比べると数が多く、より新しい漫画を読んだ年といえるでしょう。
読みたいものを読みたい時に、という基本方針は変わらずですが、好きな作品について語れる場が増えたことで開拓意欲が増しました。


昨年はなんといっても、トウテムポール先生の東京心中シリーズと出会ったことに救われました。
究極の理想(映像制作)を求める一方で、いまここにある生活(矢野さんとの生活)を愛しく思う感性に、勇気を貰います。ポール先生作品は読み味軽やかだけれど、人生の厳しさも愛も詰まってます。

小畑健作画・ほったゆみ原作『ヒカルの碁』も読み返しました。
ヒカルが消えた佐為を求め、出来ることをすべてやり、思いつく場所全てに行く。全てが終わってはじめて、佐為がいなくなったことと、そしてヒカル自身のなかに彼が居ることを受け入れる。まともな別れも出来ず、二度と会うこともない。ただ出来事を受け止め、人生が続いていく。喪失の本質を点いた表現に泣きました。

 

一年を振り返ってみるに、これからどうやって生きていくべきなんだろうかと思った年でありました。
そのせいか、人生の長さについての表現、ありふれているけれどかけがえのない存在についての表現により感応するようになりました。

 

 

TVアニメについて2017年に観たものは、クラシカロイド(1期)、けものフレンズリトルウィッチアカデミア有頂天家族2僕のヒーローアカデミア(2期)、DIVE!!、魔法陣グルグルキノの旅宝石の国おそ松さん(2期)でした。

映画は4本だけと殆ど観ず、
活字では千野帽子『人はなぜ物語を求めるのか』を繰り返し読んでいました。


あと将棋が好きになったのは幅が広がって良かったです。
勝ち負けがあるものに関心を持続的にもっているのは初めてかもしれません。


活動やら仕事やら人との出会いも色々ありましたがメディア的には2017年こんな感じかな。フィクションと推しの存在で私は生きてます!!ありがとう!!!

*1:同一タイトルを一度に複数巻読んでいる場合、最後の巻を読了したタイミングでカウントしています

読むことと書くこと

読むことと書くことが私の一生の仕事なのだろうと思う。昨日そう思った。

読み書きというのは、活字を読み、書くということに限らない。

漫画を読み、映画を観て、音楽を聴くことも、人と会って話しあうことも、イベントを主催することも、組織を運営することも、すべてが読み・書くことであって、インプットすることとアウトプットすることだ。

最近、子どもが欲しいと思う。血の繋がった子どものことではない。世界のいろんな受け止め方、考え方を伝えるような相手のことだ。
自分が死ぬ時に、子どもたちを残す。そんな何十年後に向けて、もっと感受し、与え、強くならなければならない。

はい、今日も不安定ー!

どうも、イベントがある休みの日はきつさがありますね。

参加側ならよいのですが、主催側だと。

現地に行くだけで、頑張った感じ。

でもそんなこと誰にも言えないし。

「本当はもっと頑張らなきゃ」って思っちゃう感じ。

 

あと、イベントのとき笑顔つくるのは、大丈夫なんだけど。本当に楽しさもあるし。

でも、つくりかたは同じなのに、仕事の時も繰り返しおんなじことしてるの、そっちは辛い。ていうか嫌だ。

本当は嫌なのに、ほかの手段がわからない。これがベターだってわかってる。

イベントも近づいてきて、仕事をしたりぐったりしていると土日が終わりますね。土曜の夜は泣いてました、デトックス

 

日曜は藤井四段が森内九段に勝ちました。

私が彼の天才ぶりを感じる点のひとつは、「将棋が好きで指していて、将棋のプロになった」ということです。

指したくない気持ちになったことがない(インタビュー記事からの推察で、一度もないかは分かりませんが)というのは、なかなか稀有なことです。

自分が好きで始めたこと、決めたことであっても、辛いことや上手くいかないことがあって、続けるのが厭になることがあるのが普通の人間だと思うから。

たまたま出会い発見した好きなものが、自分に合っていて、そして社会的にも認められ、歴史的なことを為すというのは、とても輝かしいことだと思うのです。それが思春期ただなかの少年の為すことだから、なおさら眩しい。

これから、「普通」の経験も、「普通じゃない」経験も、たくさんするんだろうなあ、

でもきっと彼はそれらに負けない強さ(人間としても、棋士としても)を持ってるんだろうなあ、と夢を託してしまいます。

がんばれー、藤井四段。

寝たくない…。色々やってみたけど全然寝たくない。

 

二村ヒトシによると私は、愛しているのではなく恋しているらしい。相手のありのままを受け入れるのが愛すること、自分のして欲しいことを求めるのが恋すること。なるほど、私はめちゃめちゃに恋している。

あーこのまま人生終わってもおかしくないな想像できるな終わるなって感じがそこまできて、実存の問題に近づいてもなお、単純に、私は恋をしているし、明日とかは無関係に寝たくない。

人生、無意味。虚無。ってことを想ってもなお他人を恋するというのは、なかなか、これは手に負えないのではなかろうか。くそ恥ずかしい。この文章自体が恥ずかしい死因になる。

 

先々週末に買った『善の研究』を、先週末は開いていない。知りたくないのならば、それは私にとって切実でないということだ。

 

このまま知らずうちに死ぬのなら、それまでのこと。

 

もう充分に大人になったような気もするが、まだまだコンティニューしていく。