買った本(2016年2月)

健康で文化的な最低限度の生活 3 (ビッグ コミックス)

月刊MdN 2016年 3月号(特集:漫画家が発明した表現30 漫画を漫画たらしめるもの)

キャラの思考法: 現代文化論のアップグレード

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[まとめ買い] アフタヌーン四季賞CHRONICLE 1987?2000

累(7) (イブニングKC)

左門くんはサモナー 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)

PASH! 2016年 03 月号

蠅の王 (新潮文庫)

これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

月刊ニュースがわかる 2016年 03 月号 [雑誌]

未来をつくる権利―社会問題を読み解く6つの講義 (NHKブックス No.1216)

TV Bros九州 2016年 2/27 号 [雑誌]

クイック・ジャパン 124

 

 

おそ松さんについてのノート6(神松と愛されたい松野兄弟とお母さんについて、21話感想)

21話、神松という6つ子のアンチテーゼの登場により、彼らは「クズ」という原点に戻り、より強くなりました。


神松は「6つ子の「人としての良い部分」が少しずつ溜まってできたまるで神のごとく清き松」です。
そして彼は、この世界に去来した根拠は6つ子と全く変わらないにも関わらず、6つ子とは正反対のことをし、彼らの居場所をすっかり奪い、叩きのめし、彼らのクズさをより強化させました。
21話で神松と悪松の両方を生んだ松野兄弟がどんなふうに愛おしいか、ということを、ここで吐き出しておきます。

順番に説明していきます。
まず「神松がこの世界に去来した根拠は6つ子と全く変わらない」から。より正確に言い換えれば、「神松も6つ子も、この世界に生まれてきた根拠なんて持っていないことには変わりない」、ということを私は言いたい。

まず神松がこのTVアニメ『おそ松さん』という世界に去来した物語上の必然性、そんなものはない。「6つ子とは何か」をより抉り出すために制作者が新たに登場させたキャラクターです。
そして、6つ子がいま『おそ松さん』でドタバタを演じている理由、それもそもそも制作の都合です。これは「赤塚不二夫生誕80周年記念作品」であり、現代において『おそ松くん』を復活させようとした結果やっとこ召喚されたのが彼ら。だから1話の6つ子達は「どうやったらこのアニメウケるかな?」の問いから始まります。そして実質本編開始の2話以降は「身体だけが大人で何にもすることがない、ニートで童貞の6つ子」として彼らは出発する。前回アニメが放送されて随分経ったから、歳はとっただろう、という訳です。それだけ。他に彼らに与えられたものといえば6つに分けられた個性と、松野家という家族だけでした。


思い出してみましょう、「俺達これ以上何を望むっていうんだよ? 家もある、食べ物も着る服もあるんだよ。そのうえ仕事に就こうなんて贅沢すぎ」「食えてるからいいじゃん。」と4話でおそ松は言いました。この台詞に共感した人も多いでしょう。私も共感しました。
そして21話で神松は「僕は皆のお陰で命を授かった。しかも着る服もある。寝る布団もある。これ以上何を望むっていうの?」と言います。おそ松と似通った台詞です。
上記の通り、神松と6つ子がそもそもTVアニメのキャラクターとして作られたという現実があるからこそ、両者の台詞にはリアリティがあります。つまり「キャラクターである彼ら自身にはやりたいことなんかない、見つからない」し、存在する場所はとりあえず保証されているのだから、「これ以上の望むものはない」。
私が共感したのも、このリアリティを感じたからこそでしょう(将来の見通しが不透明でも、今の生活が衣食住には事足りていて娯楽もあるし幸福、という若者のリアリティを描いた『絶望の国の幸福な若者たち』という本もありました)。現状のままで満ち足りているのだから、自己のなかには何をしようという目的を持っていない。

さて両者の共通性を確認したところで、ここからが「正反対」の部分です。両者は「これ以上望むものはない」という点で共通していながら、しかし行動は異なり、結果他人からの見られ方も異なります。
おそらくそれは、6つ子の「望むもののなさ」は寄る辺なさへと、神松の「望むもののなさ」は「だったらなんでも出来る」へと互換されるということではないでしょうか。
神松はなんでもあっさりと出来てしまいます。6つ子は今まで他人を羨むことが多かったですが、神松は「善」の塊ですから妬みなど一切なく、相手がしてほしいことをぺろっと、簡単にしてあげることが出来ます。そして神松は、チビ太や松代・松造、トト子から認められ、求められます。
なんということでしょうか。6つ子はあんなに他人を羨み妬み、自分を蔑み引け目を感じ、社会を恐れていました。そして相変わらず就職せず、実家も出ず、彼女も出来ませんでした。この違いをまざまざと見せつけられ、6つ子は神松を殺すことを企みます。

神松と6つ子が似たようで違う性質の存在であることは分かりましたが、もう少し詳しく6つ子のことを考えてみましょう。どのように彼らが神松によって「居場所をすっかり奪われ」たのか、なぜ彼らは神松を殺そうとまでしたのか、推測することができるはずです。

6つ子は「これ以上望むものはない」と言いながら、その一方で決して「これで満足」と心から思うことはなかったのではないでしょうか(矛盾しているように聞こえるかもしれませんが)。彼らは18話で「モテたい」「あぁ、モテたい」「認められたい」「注目されたい」「褒められたい」と叫び、武器を振り下ろし、血を流して倒れました。衣食住が保証されて特にやりたいことがなくて、「これ以上何を望むっていうんだよ?」というおそ松に対する答えは、彼らが異口同音に言っていたことは、「愛されたい」ということではないでしょうか。なぜ愛されたいと欲望してしまうのかは、ここでは問わず、21話でいったい何が起こったのかについて見ていきたいと思います。

多分彼らは、愛されたい、だけど怖いのだと私は思います。そのことは、両親と神松のやりとりを眺めるシーンに象徴されていると思います。

「かみまっちゃん」と呼んで神松を可愛がる両親。そして就職して、「月々3万円ずつ家に入れる」という神松に、松代は「そんなのいいわよぉ~……」と言葉を返します。あんなに望んだ理想の息子の行為に、「お金なんかより、あなたが立派になって嬉しいわ」というかたちのメッセージを返す母に、私はとても人間みを感じました。殺伐としたこの世界、勿論現金そのものも相当に嬉しく価値あるものであることは間違いなく、その嬉しさをありありと滲ませた演技がとても良いことも付け加えたうえでそれは置いて、「息子が立派になったことが嬉しい」のは松代の本心だろうと私は捉えました。
このやりとりを、部屋の端で正座をして、笑っていない顔で見ている6つ子は、さぞ辛いだろうと思います。ここでは母から「働いていないことより、お金を入れていないことより、あなたたちの姿勢が情けなくって愛せない」と見せつけられているのですから。
それは、彼らの存在を否定するような行為で、「愛されたい」という一番根源的な欲望に対する裏切りですから、彼らの心情が穏やかなはずはありません。大荒れです。神松=6つ子が産んだ「善き心」は、「「やりたいことがないから何もしない」のでは通用しない」、遂に母にそう言わせてしまったのです。だから彼らは両親と神松の前から逃げようとし、神松を殺そうとした。「あいつは父さんと母さんを正気に戻した」(トド松)ので、神松も(そして両親も)「何にも間違ったことはしてない」(カラ松)のは理解できるけれど、「人生難しい」(十四松)から、「殺すという選択肢しかない」(一松)。

さて、最終的に悪松を召喚する6つ子は、今回でかなりクズに磨きがかかっていることが再確認されました。
6つ子はクズでした。これは事実です。だけど私は彼らが愛しくてなりません。21話で描かれていることは結構キツい話です。でも私はこの話が好きです。なぜでしょうか。
それはこの物語が、けしてクズの6つ子を悪く描くためにつくられていないからではないでしょうか。また、肯定するためにもつくられていません。18話や21話を通しても、彼らはただ生きている、とおりいっぺんの善悪の基準や「こうあるべき」を横目に見ながら、葛藤しながら、そこに存在しています。この常識の覆しは例えば「神松」という善を「悪松」が倒してしまうという転倒に、6人の葛藤は21B全編を通して、またラストで気を失って傀儡のようになっているオチに表れていたように思います。
彼らの生き辛さを、ちょっと突き放したように、時にドキッとするほど近い距離で、切り取ってみせているのがTVアニメ『おそ松さん』であって、私はその絶妙な距離感覚に病みつきになっているのです。


ところで21話、私には、彼らが「ごめんねお母さん」と遂に言えずに逃げ出しているところが引っかかりました。彼らがそんな風に思っているかどうかは特別描かれていませんが(以前カラ松と十四松が「育ての苦労は考えたくない」と歌っていたので、そういう心情はきっとあると見てよいと思いますが)、私はついそこが気にかかりました。
これは私の想像です。でも、6つ子がもし何の衒いなく、恐れず勇気を出してそう言えたなら、松代は「ばかねえ私の息子たち」って返してくれたような気がしませんか。だってどんなに情けなくても、彼らは神松と違って「産んだ覚えのある息子たち」なんだから。17話で彼らのアルバム、『おそ松さん』の世界での成長の記録を垣間見せられたあとだから余計、そんな風な感傷を抱いてしまいます。

……そんな風に彼らはきっと母に愛されている、と思うと同時に、彼らがその言葉を口に出せない感覚もなんとなくわかっちゃうなと思い、そこもまた私の辛いポイントです笑
「ごめんね」って言わないのは、甘えであって、やっぱりそこもクズポイントなんだろうな。でも家族がどういうモノかって言葉にして認めるのは、他人に向き合うよりもハードルが高いよね、忌避するよね、って。神松には「他人が口出しすんじゃねえ」って歯向かえるけどね。難しいよね。

買った本(2016年1月)

 アンダーグラウンド (講談社文庫)

Animege(アニメージュ) 2016年 02 月号 [雑誌]

おそ松くん (21) (竹書房文庫)

おそ松くん (22) (竹書房文庫)

月刊ニュースがわかる 2016年 01 月号 [雑誌]

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テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ (星海社新書)

ネオ・ファウスト 1

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僕だけがいない街(7)<僕だけがいない街> (角川コミックス・エース)

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spoon.2Di vol.10 表紙巻頭特集「おそ松さん」/Wカバー「美男高校地球防衛部LOVE!」 (カドカワムック)

へろへろ 雑誌『ヨレヨレ』と「宅老所よりあい」の人々

 

おそ松さんについてのノート5(13話感想と、闇のない松野一松について)

13話の感想を現場で壁打ち。

「ちっぽけな人間が生きることにあらかじめ用意された意味なんかない。それにも関わらず、どんな夜にもまた陽は昇る」。本当に本当に良い最終回でした(私は13話を、「もしも松が1クール放送だった場合の最終回」だったのだと勝手に思っています)。

私の見たかったものを見せてくれて、感謝しています。死ぬほど笑いながら、死ぬほど萌えながら観た13話のあと、不思議と私の心は穏やかです。そして感想の第一声は「あー トド松ありがとう」でした。

 

まず、Aパート「実松さん」。酷い。酷すぎる。40手前彼女なし男の悲哀とみじめさと侘しさ。そして、ささやかな幸せ。そこにはただただ空っぽになって時間が過ぎゆくのを待っているだけの人間の姿があり、苦楽を分かち合う兄弟だけが癒しとなり生きる糧とする男の姿があった。
これは、ニートの6つ子達のリアルな人生なんでしょうか。それとも、深夜アニメを生きる糧にしている視聴者の写し絵なんでしょうか? どちらにしろ精神攻撃が酷すぎます。2話から12話までこの方、うわごとのように繰り返してきた「おそ松さんは現実」を、本当に公式がやってくれたのです。予想以上の痛々しさで。
私は笑いながら観ました、初見。「いやいやいやwwwwかわいい六つ子ニートは何処にいったし、何を見せられてるのか分からないしwwwwww」。六つ子の等身変更で20分間突っ走った1話が思い出され、画面の薄汚れぶり、実松の気持ち悪さ、それでも彼が松の名を持つ人間であることや、聞きなれたBGM、チャンネルが合っていることによってこれは「おそ松さん」の一部であると認識して、私は笑っていました。食卓風景やスーパーで食材を買う場面が、過去放送とオーバーラップし、「おそ松さんであっておそ松さんで無い、滑稽な、すごく切実そうな何か」を観て、私は笑っていました。同時に、実松が私と近い何かであることを感じていました。「私は実松だったかもしれない」んです。なんなら、私の身近に居る人々や、私の一部分だって、「こんなところは俺の居場所じゃない」って他人の視線を背中に受け息をひそめながら、そして「やっぱりここは俺の居場所だ」って温かい布団にくるまりながら、日々をやりすごしているんじゃあないか?
実松は、幸せなんでしょうか? その答えは人によって異なると思います。でも一つだけ確かに言えるのは、そこにある寂しさ。人付き合いの苦手な彼を案じて家まで尋ねに来てくれた彼女は、真実を、理解しがたい実松の日常を見て、叫ぶ。彼女と実松が理解しあう機会を与えられぬまま、「実松さん」第3話は幕を閉じる。*1

 次にBパート「じょし松さん」。これは、私は比較的ライトに観ました。とはいえ変化球に次ぐ変化球!! 女体化の噂はきいたものの、本当に汚い女子化で酷かったです。あ、褒めています。10話のイヤ代やチビ美で、「その気になれば可愛く消費されうる女体化デザインは可能」だということは実証済みにも関わらずというか逆手に取ってというか、この6つ子(彼女らは姉妹でなく友達設定なのですが、そんなことはともかく名前と声と特徴が6つ子なので)、普通にどっかに居そうだし普通に汚い。痛い。汚いぞ女子は。たくましい。人間だからな。

そして本編Cパート、そして新OP。
ABが波乱すぎて、6つ子が6つ子をやっているだけで安心する。が、ネタ自体は事故案件。面白くないわけない。本当に本当に可愛かった、喧嘩して軽率に互いの傷を抉りあう6つ子。全員について言及しようとすると収集つかないので、一つだけ言いたいことを言います。今回トド松が一松を弄ったことで、一松を好きな私が救われた気持ちです。ありがとう。

そもそも5話の後からずっと私はもやもやしていたんです。エスパーニャンコ回で一松は「本当は友達が欲しい、寂しい」「兄弟がいるから友達は要らない」って言っていたわけです。相反するようだけど、両方本音です。そのSOSに対して、誰も応えてはいないまま一見「良い話風」に5話はオチたと私は感じていました。
カラ松以外の全員がしっかりとその言葉を聞いているはずなのですが、寧ろ、何事も無かったかのように「家に帰ろう」とおそ松兄さんは言いました。「何を考えているのか分からない危険人物」という仮面は剥がれたのに、兄弟は丁寧に素顔を見ないようにして、そっと仮面を着けなおしてくれました。一松がそうして欲しがっていることを察して。
一松はこう考えてるんじゃないでしょうか。あらかじめ自分のことを「底辺」で「燃えないゴミ」だと教えてやっておけば、頑張らなくていい、下手に傷つかない。このままでいい、どうせダメなんだし、最初からお互いに変な期待は捨て置く。だからなりふり構わないパフォーマンスも可能。いっそ開放感。うっかり取り落とした仮面を着けなおし、言葉にならない気持ちを溜めこんだ一松は、ひと時のパフォーマンスで生きていることを確かめる。
でも彼は、トド松を貶めながら、十四松と野球をしながら、チビ美に裏切られながら、やっぱり「友達が欲しい」「あぁ、寂しい」と思っているはずなんです。十四松だって、彼女に告白したいと思った。外の世界を望んだ。それなら一松だって、自分が抱えた不全感を、甘ったれの自分への懲罰を、漠然とした寂しさを、忘れてしまった訳ではないでしょう? 人と触れ合いたい、だから「まだジュース残ってる」って残念そうに言うんでしょう?
 5話以降、11話までの一松は、仮面が仮面であることを暴かれたまま、それを被り続けていました。兄弟(カラ松以外)がそれを察してくれるから。本音を言う必要なんて無いから。

 でもそれって酷くないですか?
 彼はあんなにはっきりと「あぁ寂しい」って言ったんですよ。まあ、「あぁ寂しい」はあくまでニャンコの台詞としてさて置いたとしても、(カラ松以外の)兄弟の前で、「俺も、ごめん」っていう言葉を、自分の口で、言ったんです。不器用で自信がない彼が、自分の気持ちに衒いのない言葉を、勇気を出して。それを口にすることで、「ニャンコに暴かれた本音全部は自分のものだ」「僕は普通だ」と認めてしまった。
 本音が届いて他人と意思疎通ができた瞬間っていうのは、すごく美しい体験のはずで。だから5話は感動的だったし、松野一松は帰り道に涙した。でもその意思疎通は、美しさは、5話というドラマにおいては「夕焼けをバックにした一松と、その腕に抱かれるニャンコ」という一枚の画に凝縮されていた。されてしまった。兄弟は、「(猫が)見つかって本当に良かった」「(猫が)いなくなったときはどうしようかと思った」と言いながら帰った。彼らは一松に、仮面を再び被るように促した。
*2
何度も言いますが、一松は、兄弟の前で、ボロボロの本音を曝け出したんです。その勇気を、兄弟は、蔑ろにしたんじゃあないですか? それって、酷いことだと思いませんか? 私は多分、そこに納得がいかなかった。

そこで、トド松です。「絶対弄っちゃだめ、殺しにくるよ」「一松兄さんに友情とか無いって」「サスペンス妄想は止めて、闇松兄さん」トド松はこれまで、一松が望んでいる扱い、キャラ付けを精確に補強してくれていました。察する能力が高いトド松だからこそ、一松のキャラを理解した応酬が出来たのでしょう。5話の帰り道では、いつもと様子の違う兄に対して「あれ?一松兄さん泣いてるぅ?」と茶化すような調子で声をかけます。彼も、一松が滅多に出さない素直さにいちおう反応はしつつも、うやむやにすることを選んだのです。

ここでやーーっと13話の話ができるわけですが、まぁ、今回トド松は一松に対して、エスパーニャンコ回を引き合いに出して、「闇キャラ作ってるけど普通じゃんwwwwワラ」って言ってくれたわけです。それは私には、5話以来はじめての、一松の勇気への応答にみえました。それがディスりだろうと、いいんです。どんなはぐらかしよりも、本音に対して返って来た本音のほうが、価値があります。トド松が「一松兄さんは痛い」と名指してくれたことが、私は嬉しかった。
 しかも、トド松が一松のマネをしだした時、私は「友達が欲しい」の台詞を弄ってくるんだと瞬間的に思いました。ところが、奴はあろうことか「俺も、ごめん」の方を選んできたんです!!! 参りました。一番美しかったあの場面の台詞、一松が唯一、他者に伝えたくて、自分の口で、自分の本音を喋った、その台詞を選んでくるとは。そっちのほうがダメージでかいわ。トド松お前、頭良いよ。
あと、それから一松は、服を持ち去る+エロコレクションを曝すという、彼らしい地味な嫌がらせ、ささやかな仕返しをした訳ですが。ちっっせえ反抗だけどさ、お前もしぶとさあるよね。Spoonで松原さんが「男兄弟のなかで育ったから弱々しいだけじゃない」って言ってたもんね。そういう一松の生命力とか、他の5人それぞれの生命力とかが感じられるCパートだったよ。

 闇の浅い松野一松、愛しい。
 一夜明けての朝食風景、いつも通り。何度も何度も繰り返してきた喧嘩、夜と朝、それは日常、それは地獄、それは安寧、それは日常。なんだよ実松じゃん。

 からの「全力バタンキュー」だから、最高なんだよ。「どんな夜もまた陽は昇る」。実松というある種救いのない人生を見せた回で、6つ子がそれぞれの傷に塩を塗りあう喧嘩をした回に、そんな歌をのせるんですよ。
 もっと言うと映像もすごく良くて、6つ子はさまざまな障害に遭いつつもスルーして走り続けるし、裸になるし、皆の先頭に立つし、画面にめちゃくちゃ寄ってくるくらい全力だし。赤子のようになって地球に受精する6つ子→太陽系→を掌中に収めるダヨーン→が漂う広大な宇宙に謎の光→が、6つ子が浸かる銭湯の泡になる、のが最高。「ちっぽけな人間がただ裸で生きている、宇宙の神秘、そんなことに関わらず、6つ子は今日もバカ」「どんな夜にもまた陽は昇る」
「総じて完璧ソサエティー、タイトルはおそ松さん」!!!!

 本当に良い最終回だった。ありがとう。おそ松さんはよく出来たアニメだ。

え? 違う、これ2クール開始一発目の放送だって? これ以上何をやるっていうんだよ、ありがとう最後まで着いていきます!!!

*1:知人と話していて別の解釈が出てきました。彼女は、兄弟と幸せな時を過ごす実松の姿を見て、自分が狂っているのかもしれない恐怖をおぼえたのかもしれません。実際、実松と彼女と、どちらが正気かなんてわかりません。そして、彼女とは、おそ松さんを観ている私たち?

*2:十四松と一松の間にすら、そこに意思疎通はあったのでしょうか。彼らのコミュニケーションは非言語の馴れ合い的なものが多いです。ニャンコの最初の「ごめんね」は十四松の本音で、一松に向けられたものであることは間違いないとみているけれど、一松の「俺も、ごめん」は、いったい十四松に届いたのか?

買った本(2015年12月)

2016年は今より現代思想に強くなりたい

哲学用語図鑑

ゲンロン1 現代日本の批評

吾輩の部屋である 1 (ゲッサン少年サンデーコミックス)

暗殺教室 17 (ジャンプコミックス) 終盤に向かっている。今巻も素晴らしいラストでした


おそ松くん (12) (竹書房文庫)

おそ松くん (13) (竹書房文庫)

おそ松くん (15) (竹書房文庫)

おそ松さんの情報掲載誌

Animege(アニメージュ) 2016年 01 月号 [雑誌]

アニメディア 2016年 01 月号 [雑誌](メージュと間違えて買った)

PASH! 2016年 01 月号 [雑誌]

ニュータイプ 2016年1月号

spoon.2Di vol.9 表紙巻頭特集「K RETURN OF KINGS」/Wカバー「おそ松さん」 (KADOKAWA MOOK)

 

 

私的2015年のマンガふりかえり

2015年に読んだマンガをまとめました。(自分の手元用メモをアップしただけ)

オレンジのセルは特にお気に入りの作家/作品です。

今年は40作家読みました。そのうち新規開拓は15作家。

何より冨樫義博作品に夢中になれて幸せでした。

HUNTER X HUNTER32 (ジャンプコミックス)

HUNTER X HUNTER32 (ジャンプコミックス)

 

 

レベルE(上) (集英社文庫―コミック版)

レベルE(上) (集英社文庫―コミック版)

 

 
ジャンプ作品ってちゃんと面白いんだなと思った(これまで殆ど触れていなかった…)一年でもありました。松井優征暗殺教室』はアニメ化もしました。堀越耕平『僕のヒーローアカデミア』もアニメ化決定、順調に躍進中ですね。

 

暗殺教室 16 (ジャンプコミックス)

暗殺教室 16 (ジャンプコミックス)

 

 

僕のヒーローアカデミア 6 (ジャンプコミックス)

僕のヒーローアカデミア 6 (ジャンプコミックス)

 

 

社会派は浅野いにお『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』や柏木ハルコ健康で文化的な最低限度の生活』が好きです。

 

 

 

 丹波庭『トクサツガガガ』も今時のオタク生態漫画として素晴らしい。

 

トクサツガガガ 4 (ビッグコミックス)

トクサツガガガ 4 (ビッグコミックス)

 

 
相変わらず講談社の漫画好きです。

 

ホーリータウン (モーニング KC)

ホーリータウン (モーニング KC)

 

 

 

ムシヌユン 1 (ビッグコミックス)

ムシヌユン 1 (ビッグコミックス)

 

 

 

波よ聞いてくれ(1) (アフタヌーンKC)

波よ聞いてくれ(1) (アフタヌーンKC)

 

 

 『描かないマンガ家』は申し分ない完結巻でした。

描かないマンガ家 7 (ジェッツコミックス)

描かないマンガ家 7 (ジェッツコミックス)

 

 

 

おそ松さんについてのノート4

 『おそ松さん』のテーマであり、私の関心事でもあるのが、「人はいかにして「大人」たりうるのか。そして幸せになれるのか」という問いです。
 現代人は「大人」について、ある程度共通の認識を持っています。「人生の過程のどこかで親元を離れ、働いて、その対価としてお金を得て、恋愛して、結婚して、子供を持つ」という人生の発展段階に沿った大人像です(ステレオタイプですが、王道としては概ねこうです)。人は、これを受け容れ、内面化することで社会の構成員だという自覚を得ます。大人モデルを目指したり目指さなかったり、自分なりに良い距離を測ります。うまくいけば他人と関わり合い、働くことで生きがいを感じたり、恋人や家庭を持つことで幸せを感じたり、日々小さな達成感や承認を得ながら、「自分が社会の一員である」ということを確かめて生きています。それが、自立して、大人になる=成熟するということです。
 対して、「おそ松さん」の主役たる松野兄弟は、ニートという設定を与えられました。つまり働いていないし、働くつもりもない、という設定です。ついでに恋人もおらず童貞です。松野兄弟は、社会が要請する大人像を、理屈としては理解できるけれど、内面化することができません。もしくは、実際に行動に反映させることがでないか、行動したとしても結果が伴いません。
 彼らは、社会と自分との関係をうまくとり結べなかった青年達、とりこぼされた人間です。『おそ松さん』というアニメは、彼らがいかにとりこぼされているか、という内容を12話ぶん描いてきました。
 ひるがえって現実の私たちのことを考えてみると、たとえ就職して働いていたとしても、友人や恋人がいたとしても、「社会に居辛い」「座り心地の悪い」感覚は大なり小なりあるのではないでしょうか。私はあります。他人と関わることは基本的に怖いことだ、人から認められるためには努力が必要だけど報われるとは限らない、だけど社会に居場所を得るためには頑張らなくてはならない、そんな気持ちは学生時代も、就活中も、今もあります。言葉にはしなくても。だけどそれは当たり前なんです。私たちはたまたま人間として、たまたま現代社会に生まれてきてしまっただけなのだから。本来、大人になろうとなるまいと、誰もが正解だと認める人生なんて、無いのでしょう。
 私は最初に「人はいかにして「大人」たりうるのか。そして幸せになれるのか」と問いました。その答えは未だ出ていませんが、少なくとも「大人になれない」ことは、珍しいことでもなんでもなく、当たり前なのだと、『おそ松さん』を観ていて思います。
 大人になれない松野兄弟は、「これでいいのだ」「C'est la vie」と高らかに謳っています。それを観て私は、笑ったり、「辛いよなあ」と共感したりしています。

 

 このアニメは、前作、または原作の子供時代から20数年経ったけれども「結果、やることなーんも見つかんねえ!」(1話)という台詞から出発しています*1。目的がない、何をしたら良いのかも分からない。そんな彼らに与えられたのは、「家族(=両親と兄弟)」でした。

 この「家族」、「両親」と「兄弟」について順にみていきます。
 ニートという立場は、両親が居て、実家がある、衣食住と趣味に使えるお金が保証されているという前提があって保証されています。このことは、4話「自立しよう」で強調、補強されています。熟年離婚を決意した母親がいちどは兄弟に「養えないから出ていきなさい」と宣言しますが、結局、息子たちの独立は果たされませんでした。兄弟が実家を出ることは当面なさそうです。つまり彼らは、稼ぐアテはなくとも、生きるか死ぬかという状況には差し当たりいません。
 彼らは決断すれば独立に向けて取り組むことが出来るはずだ、というか成人男性として、親からもそのような圧力がかけられている、という状況でした。しかし彼らははなから独立を希望しませんでした。結果として、母親も、甲斐性のない息子たちを追い出すことは諦めたようです(5話で彼女は自ら彼らにおやつ(梨)を提供します)。かつて子供だった彼らが成人したように、両親もいつかは歳を取り自由に動けなくなるはずなのですが、差し当たり今は問題ない、そういう意味で兄弟は正しくモラトリアムを享受しています。
 「両親」および実家は、松野兄弟が安穏としていられる大前提です。そして、彼らは自ら選択をして実家に依存しています。それらを踏まえて、私は彼らを「ほんとうにクズだなあ」と笑って視ています。

 次に、もうひとつ6つ子に与えられたもの、「兄弟」とは何なのでしょうか。結論から先に言うと、『おそ松さん』における「兄弟」は、6つ子が「大人になれない」ことの元凶です。どういうことか。
 最初私は思っていました、『おそ松さん』はクズな6つ子がわちゃわちゃとバカなことをしているのを視て笑えるアニメだと。しかし放映がすすみ、5話や7話を経てだんだん明らかになってくるのは、「おや、兄弟も一枚岩じゃないようだ、いくつかの亀裂があって、6つ子自身が6つ子のままで居ることを必死で維持しようとしているんだ」ということです。「兄弟」という半永久的な居場所があるからこそ、彼らは大人になれていません。
 「6つ子はそれぞれの傷を隠し持っている、というか兄弟で互いに傷つけ合いやすれ違いもある他人同士だ、だけれど彼らにとって家は「帰る場所」であって、そこには幸も不幸もない」。個々の葛藤を抱えた6人の青年が、色々ありつつも他の兄弟と関係し続けている様を描いているのが『おそ松さん』です。
 作品中で彼らは度々、松野家の外側にある社会や他者に出会います(2話のブラック工場や、7話のスタバァ、9話の彼女など)。そして、自己と社会との長期的で良好な関係をとり結ぶことが出来ずに、松野家へ帰ってきます。
 先の「大人」モデルに照らすと「家族(実家)」は、子供がそこで愛され、育ち、一定の時が経てば自立して巣立っていくという場所のはずでした。ところが松野兄弟にとっては家族は巣立ちの場所ではなく、寧ろ半永久的な居場所であり、自分が捉われている場所になっています。

 こう言うとディストピアじみているのですが、それは、生きる目的を与えられずに生まれてしまった彼らが、何をすればよいか皆目分からないままに両親を搾取し、松野家に依存し続けることの代償なのかもしれません。

 「やることなーんもねえ」だけどお話は続いています。彼らには欲望があります。「知りたいかも、こいつの気持ち」「あぁ、寂しい」「ワンランク上の人間になったんだ!」「何故皆俺のことを指して痛いと言う」生きているだけで変化と全く無縁ではいられません。税金みたいに、生きているだけで払う代償。食べて消費せざるをえないし、他人に世話にならざるをえない。生きているだけで寂しい。やりたいことなんてどこにもない。それでも6つ子はもがいている、生きているから。

どんなゴールに向かっているのか全然予想が出来ないけれど、「生きている価値?なくて上等!人生楽しむぜ!」というしぶとい6つ子たちが、2クール目も楽しませてくれることを信じています!

*1:この台詞は、赤塚作品=昭和、過去の名作というイメージを覆し、平成の世の中で商業作品として生き返らせなければいけない、さて一体どうしよう、というメタな状況とオーバーラップしています