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おそ松さんについてのノート4

 『おそ松さん』のテーマであり、私の関心事でもあるのが、「人はいかにして「大人」たりうるのか。そして幸せになれるのか」という問いです。
 現代人は「大人」について、ある程度共通の認識を持っています。「人生の過程のどこかで親元を離れ、働いて、その対価としてお金を得て、恋愛して、結婚して、子供を持つ」という人生の発展段階に沿った大人像です(ステレオタイプですが、王道としては概ねこうです)。人は、これを受け容れ、内面化することで社会の構成員だという自覚を得ます。大人モデルを目指したり目指さなかったり、自分なりに良い距離を測ります。うまくいけば他人と関わり合い、働くことで生きがいを感じたり、恋人や家庭を持つことで幸せを感じたり、日々小さな達成感や承認を得ながら、「自分が社会の一員である」ということを確かめて生きています。それが、自立して、大人になる=成熟するということです。
 対して、「おそ松さん」の主役たる松野兄弟は、ニートという設定を与えられました。つまり働いていないし、働くつもりもない、という設定です。ついでに恋人もおらず童貞です。松野兄弟は、社会が要請する大人像を、理屈としては理解できるけれど、内面化することができません。もしくは、実際に行動に反映させることがでないか、行動したとしても結果が伴いません。
 彼らは、社会と自分との関係をうまくとり結べなかった青年達、とりこぼされた人間です。『おそ松さん』というアニメは、彼らがいかにとりこぼされているか、という内容を12話ぶん描いてきました。
 ひるがえって現実の私たちのことを考えてみると、たとえ就職して働いていたとしても、友人や恋人がいたとしても、「社会に居辛い」「座り心地の悪い」感覚は大なり小なりあるのではないでしょうか。私はあります。他人と関わることは基本的に怖いことだ、人から認められるためには努力が必要だけど報われるとは限らない、だけど社会に居場所を得るためには頑張らなくてはならない、そんな気持ちは学生時代も、就活中も、今もあります。言葉にはしなくても。だけどそれは当たり前なんです。私たちはたまたま人間として、たまたま現代社会に生まれてきてしまっただけなのだから。本来、大人になろうとなるまいと、誰もが正解だと認める人生なんて、無いのでしょう。
 私は最初に「人はいかにして「大人」たりうるのか。そして幸せになれるのか」と問いました。その答えは未だ出ていませんが、少なくとも「大人になれない」ことは、珍しいことでもなんでもなく、当たり前なのだと、『おそ松さん』を観ていて思います。
 大人になれない松野兄弟は、「これでいいのだ」「C'est la vie」と高らかに謳っています。それを観て私は、笑ったり、「辛いよなあ」と共感したりしています。

 

 このアニメは、前作、または原作の子供時代から20数年経ったけれども「結果、やることなーんも見つかんねえ!」(1話)という台詞から出発しています*1。目的がない、何をしたら良いのかも分からない。そんな彼らに与えられたのは、「家族(=両親と兄弟)」でした。

 この「家族」、「両親」と「兄弟」について順にみていきます。
 ニートという立場は、両親が居て、実家がある、衣食住と趣味に使えるお金が保証されているという前提があって保証されています。このことは、4話「自立しよう」で強調、補強されています。熟年離婚を決意した母親がいちどは兄弟に「養えないから出ていきなさい」と宣言しますが、結局、息子たちの独立は果たされませんでした。兄弟が実家を出ることは当面なさそうです。つまり彼らは、稼ぐアテはなくとも、生きるか死ぬかという状況には差し当たりいません。
 彼らは決断すれば独立に向けて取り組むことが出来るはずだ、というか成人男性として、親からもそのような圧力がかけられている、という状況でした。しかし彼らははなから独立を希望しませんでした。結果として、母親も、甲斐性のない息子たちを追い出すことは諦めたようです(5話で彼女は自ら彼らにおやつ(梨)を提供します)。かつて子供だった彼らが成人したように、両親もいつかは歳を取り自由に動けなくなるはずなのですが、差し当たり今は問題ない、そういう意味で兄弟は正しくモラトリアムを享受しています。
 「両親」および実家は、松野兄弟が安穏としていられる大前提です。そして、彼らは自ら選択をして実家に依存しています。それらを踏まえて、私は彼らを「ほんとうにクズだなあ」と笑って視ています。

 次に、もうひとつ6つ子に与えられたもの、「兄弟」とは何なのでしょうか。結論から先に言うと、『おそ松さん』における「兄弟」は、6つ子が「大人になれない」ことの元凶です。どういうことか。
 最初私は思っていました、『おそ松さん』はクズな6つ子がわちゃわちゃとバカなことをしているのを視て笑えるアニメだと。しかし放映がすすみ、5話や7話を経てだんだん明らかになってくるのは、「おや、兄弟も一枚岩じゃないようだ、いくつかの亀裂があって、6つ子自身が6つ子のままで居ることを必死で維持しようとしているんだ」ということです。「兄弟」という半永久的な居場所があるからこそ、彼らは大人になれていません。
 「6つ子はそれぞれの傷を隠し持っている、というか兄弟で互いに傷つけ合いやすれ違いもある他人同士だ、だけれど彼らにとって家は「帰る場所」であって、そこには幸も不幸もない」。個々の葛藤を抱えた6人の青年が、色々ありつつも他の兄弟と関係し続けている様を描いているのが『おそ松さん』です。
 作品中で彼らは度々、松野家の外側にある社会や他者に出会います(2話のブラック工場や、7話のスタバァ、9話の彼女など)。そして、自己と社会との長期的で良好な関係をとり結ぶことが出来ずに、松野家へ帰ってきます。
 先の「大人」モデルに照らすと「家族(実家)」は、子供がそこで愛され、育ち、一定の時が経てば自立して巣立っていくという場所のはずでした。ところが松野兄弟にとっては家族は巣立ちの場所ではなく、寧ろ半永久的な居場所であり、自分が捉われている場所になっています。

 こう言うとディストピアじみているのですが、それは、生きる目的を与えられずに生まれてしまった彼らが、何をすればよいか皆目分からないままに両親を搾取し、松野家に依存し続けることの代償なのかもしれません。

 「やることなーんもねえ」だけどお話は続いています。彼らには欲望があります。「知りたいかも、こいつの気持ち」「あぁ、寂しい」「ワンランク上の人間になったんだ!」「何故皆俺のことを指して痛いと言う」生きているだけで変化と全く無縁ではいられません。税金みたいに、生きているだけで払う代償。食べて消費せざるをえないし、他人に世話にならざるをえない。生きているだけで寂しい。やりたいことなんてどこにもない。それでも6つ子はもがいている、生きているから。

どんなゴールに向かっているのか全然予想が出来ないけれど、「生きている価値?なくて上等!人生楽しむぜ!」というしぶとい6つ子たちが、2クール目も楽しませてくれることを信じています!

*1:この台詞は、赤塚作品=昭和、過去の名作というイメージを覆し、平成の世の中で商業作品として生き返らせなければいけない、さて一体どうしよう、というメタな状況とオーバーラップしています