おそ松さんについてのノート6(神松と愛されたい松野兄弟とお母さんについて、21話感想)

21話、神松という6つ子のアンチテーゼの登場により、彼らは「クズ」という原点に戻り、より強くなりました。


神松は「6つ子の「人としての良い部分」が少しずつ溜まってできたまるで神のごとく清き松」です。
そして彼は、この世界に去来した根拠は6つ子と全く変わらないにも関わらず、6つ子とは正反対のことをし、彼らの居場所をすっかり奪い、叩きのめし、彼らのクズさをより強化させました。
21話で神松と悪松の両方を生んだ松野兄弟がどんなふうに愛おしいか、ということを、ここで吐き出しておきます。

順番に説明していきます。
まず「神松がこの世界に去来した根拠は6つ子と全く変わらない」から。より正確に言い換えれば、「神松も6つ子も、この世界に生まれてきた根拠なんて持っていないことには変わりない」、ということを私は言いたい。

まず神松がこのTVアニメ『おそ松さん』という世界に去来した物語上の必然性、そんなものはない。「6つ子とは何か」をより抉り出すために制作者が新たに登場させたキャラクターです。
そして、6つ子がいま『おそ松さん』でドタバタを演じている理由、それもそもそも制作の都合です。これは「赤塚不二夫生誕80周年記念作品」であり、現代において『おそ松くん』を復活させようとした結果やっとこ召喚されたのが彼ら。だから1話の6つ子達は「どうやったらこのアニメウケるかな?」の問いから始まります。そして実質本編開始の2話以降は「身体だけが大人で何にもすることがない、ニートで童貞の6つ子」として彼らは出発する。前回アニメが放送されて随分経ったから、歳はとっただろう、という訳です。それだけ。他に彼らに与えられたものといえば6つに分けられた個性と、松野家という家族だけでした。


思い出してみましょう、「俺達これ以上何を望むっていうんだよ? 家もある、食べ物も着る服もあるんだよ。そのうえ仕事に就こうなんて贅沢すぎ」「食えてるからいいじゃん。」と4話でおそ松は言いました。この台詞に共感した人も多いでしょう。私も共感しました。
そして21話で神松は「僕は皆のお陰で命を授かった。しかも着る服もある。寝る布団もある。これ以上何を望むっていうの?」と言います。おそ松と似通った台詞です。
上記の通り、神松と6つ子がそもそもTVアニメのキャラクターとして作られたという現実があるからこそ、両者の台詞にはリアリティがあります。つまり「キャラクターである彼ら自身にはやりたいことなんかない、見つからない」し、存在する場所はとりあえず保証されているのだから、「これ以上の望むものはない」。
私が共感したのも、このリアリティを感じたからこそでしょう(将来の見通しが不透明でも、今の生活が衣食住には事足りていて娯楽もあるし幸福、という若者のリアリティを描いた『絶望の国の幸福な若者たち』という本もありました)。現状のままで満ち足りているのだから、自己のなかには何をしようという目的を持っていない。

さて両者の共通性を確認したところで、ここからが「正反対」の部分です。両者は「これ以上望むものはない」という点で共通していながら、しかし行動は異なり、結果他人からの見られ方も異なります。
おそらくそれは、6つ子の「望むもののなさ」は寄る辺なさへと、神松の「望むもののなさ」は「だったらなんでも出来る」へと互換されるということではないでしょうか。
神松はなんでもあっさりと出来てしまいます。6つ子は今まで他人を羨むことが多かったですが、神松は「善」の塊ですから妬みなど一切なく、相手がしてほしいことをぺろっと、簡単にしてあげることが出来ます。そして神松は、チビ太や松代・松造、トト子から認められ、求められます。
なんということでしょうか。6つ子はあんなに他人を羨み妬み、自分を蔑み引け目を感じ、社会を恐れていました。そして相変わらず就職せず、実家も出ず、彼女も出来ませんでした。この違いをまざまざと見せつけられ、6つ子は神松を殺すことを企みます。

神松と6つ子が似たようで違う性質の存在であることは分かりましたが、もう少し詳しく6つ子のことを考えてみましょう。どのように彼らが神松によって「居場所をすっかり奪われ」たのか、なぜ彼らは神松を殺そうとまでしたのか、推測することができるはずです。

6つ子は「これ以上望むものはない」と言いながら、その一方で決して「これで満足」と心から思うことはなかったのではないでしょうか(矛盾しているように聞こえるかもしれませんが)。彼らは18話で「モテたい」「あぁ、モテたい」「認められたい」「注目されたい」「褒められたい」と叫び、武器を振り下ろし、血を流して倒れました。衣食住が保証されて特にやりたいことがなくて、「これ以上何を望むっていうんだよ?」というおそ松に対する答えは、彼らが異口同音に言っていたことは、「愛されたい」ということではないでしょうか。なぜ愛されたいと欲望してしまうのかは、ここでは問わず、21話でいったい何が起こったのかについて見ていきたいと思います。

多分彼らは、愛されたい、だけど怖いのだと私は思います。そのことは、両親と神松のやりとりを眺めるシーンに象徴されていると思います。

「かみまっちゃん」と呼んで神松を可愛がる両親。そして就職して、「月々3万円ずつ家に入れる」という神松に、松代は「そんなのいいわよぉ~……」と言葉を返します。あんなに望んだ理想の息子の行為に、「お金なんかより、あなたが立派になって嬉しいわ」というかたちのメッセージを返す母に、私はとても人間みを感じました。殺伐としたこの世界、勿論現金そのものも相当に嬉しく価値あるものであることは間違いなく、その嬉しさをありありと滲ませた演技がとても良いことも付け加えたうえでそれは置いて、「息子が立派になったことが嬉しい」のは松代の本心だろうと私は捉えました。
このやりとりを、部屋の端で正座をして、笑っていない顔で見ている6つ子は、さぞ辛いだろうと思います。ここでは母から「働いていないことより、お金を入れていないことより、あなたたちの姿勢が情けなくって愛せない」と見せつけられているのですから。
それは、彼らの存在を否定するような行為で、「愛されたい」という一番根源的な欲望に対する裏切りですから、彼らの心情が穏やかなはずはありません。大荒れです。神松=6つ子が産んだ「善き心」は、「「やりたいことがないから何もしない」のでは通用しない」、遂に母にそう言わせてしまったのです。だから彼らは両親と神松の前から逃げようとし、神松を殺そうとした。「あいつは父さんと母さんを正気に戻した」(トド松)ので、神松も(そして両親も)「何にも間違ったことはしてない」(カラ松)のは理解できるけれど、「人生難しい」(十四松)から、「殺すという選択肢しかない」(一松)。

さて、最終的に悪松を召喚する6つ子は、今回でかなりクズに磨きがかかっていることが再確認されました。
6つ子はクズでした。これは事実です。だけど私は彼らが愛しくてなりません。21話で描かれていることは結構キツい話です。でも私はこの話が好きです。なぜでしょうか。
それはこの物語が、けしてクズの6つ子を悪く描くためにつくられていないからではないでしょうか。また、肯定するためにもつくられていません。18話や21話を通しても、彼らはただ生きている、とおりいっぺんの善悪の基準や「こうあるべき」を横目に見ながら、葛藤しながら、そこに存在しています。この常識の覆しは例えば「神松」という善を「悪松」が倒してしまうという転倒に、6人の葛藤は21B全編を通して、またラストで気を失って傀儡のようになっているオチに表れていたように思います。
彼らの生き辛さを、ちょっと突き放したように、時にドキッとするほど近い距離で、切り取ってみせているのがTVアニメ『おそ松さん』であって、私はその絶妙な距離感覚に病みつきになっているのです。


ところで21話、私には、彼らが「ごめんねお母さん」と遂に言えずに逃げ出しているところが引っかかりました。彼らがそんな風に思っているかどうかは特別描かれていませんが(以前カラ松と十四松が「育ての苦労は考えたくない」と歌っていたので、そういう心情はきっとあると見てよいと思いますが)、私はついそこが気にかかりました。
これは私の想像です。でも、6つ子がもし何の衒いなく、恐れず勇気を出してそう言えたなら、松代は「ばかねえ私の息子たち」って返してくれたような気がしませんか。だってどんなに情けなくても、彼らは神松と違って「産んだ覚えのある息子たち」なんだから。17話で彼らのアルバム、『おそ松さん』の世界での成長の記録を垣間見せられたあとだから余計、そんな風な感傷を抱いてしまいます。

……そんな風に彼らはきっと母に愛されている、と思うと同時に、彼らがその言葉を口に出せない感覚もなんとなくわかっちゃうなと思い、そこもまた私の辛いポイントです笑
「ごめんね」って言わないのは、甘えであって、やっぱりそこもクズポイントなんだろうな。でも家族がどういうモノかって言葉にして認めるのは、他人に向き合うよりもハードルが高いよね、忌避するよね、って。神松には「他人が口出しすんじゃねえ」って歯向かえるけどね。難しいよね。