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なぜ書くのか

ものを書くというのは、苦しい行為だと思う。
ものを書くというのは、自分の主義主張や価値観をかたちに残すということだ。すると必ず他人の主義主張や価値観とのズレが生まれる。他人と自分との相違がぶつかる、精神的な殴り合い行為が生まれる。
スポーツのほうがよっぽど気持ちがよいと思う。決まったルールのもとで、点数による明確な勝ち負けが証明される。肉体を駆使して力を発揮し、互いの誇りを尊重したまま闘う。
対して書かれたものの世界というのは、(書き手としてそれなりの作法というものはあれど、誰もがそれを共有しているわけではない)ルール無用、互いのものの見方や言葉ひとつの使い方という根本からズレていることなどざらにある。そして、自分の書いたものを否定される、批判されるというのは、自分自身を、自分の存在意義や大切なものや人生を否定されるかのような、辛い思いを味わう。

ものを書く行為は、そういう苦しみの可能性を孕んでいる。
と、いうことを、昨年から感じている。

それなのになぜ、私はいま、書きたいと思っているのか。

私が経験できることは限られている。1990年に、日本の、福岡県で生まれた、特筆すべき才能は特にないと思われる一個人である。
だけど人は、自分自身が直接経験できないものごとについてでも、知ることはできる。想像することはできる。
どれだけ私が弱い個人であったとしても、ものを知ること、他を知ること、世界を知ることはできる。

それは、いままで私が読んできたものたちが教えてくれた。蒙を啓かれた瞬間にはじける甘美の感覚。たとえば、今まで隠れていたものの手触りが確かになったときの静穏。「ああそういうかたちをしていたんだね」と言ってやりたい。あるいは、あまりの発見にじっとしていられないような興奮。みんなにひらめきを叫んでまわりたい。

知るということは、快感だ。
そして糧であり武器にもなりえる。

言葉は私たちの大事な意思疎通の手段だ。知を互いに分け与える。苦しみはあるかもしれないが、そうでない可能性もある。自分が傷つき他人を傷つける恐れはあるかもしれない、だがもしかしたら私の言葉が誰かに届いた時には、震えるような快感もあるかもしれない。欲望。
大仰な感じだが、そういうことじゃあないだろうか。


……ここまで覚書の意味も込めて書いたものの、書くことも知ることも、特別じゃない、あくまでありふれた行為だ。甘美な発見は稀であって、日常は慣れの行為であって、想像することは、いつかくる未来のための用心でもある、なんかそういうことも含めてまだ改めて、なぜ書くのか、考えてみる余地はあると思う。