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水俣病記念講演会

4月29日に光円寺本堂で行われた「第16回水俣病記念講演会」に行ってきた。


なぜわざわざ足を運んだのかというのは色々偶然もあるのだけれど、まず数年前に博多駅水俣病の展示をみたということがある。もともと水俣病に対するイメージは、教科書的な、公害病の代名詞というくらいの認識しかなかった。展示をみたことで、水俣病とは、人類がすすめてきた産業発展と、その時代に生きた普通の人間との間に発生した歪みなのだなあと知った。人がいかに生きるべきか、社会は何を選択すべきかという一筋縄でない問いにつながっており、そういう意味で興味を持っている。
そして今回直接的には、司会の奥田愛基をみてみたい、というミーハー心が動機になった。最近文化講演のたぐいも聞いてないしな、気軽に行こう、というわけである。
4人の講演者が立ったが、やはり当事者の語りというのは圧倒的で、最後にお話された水俣病患者の緒方氏の言葉には心動かされるものがあった。

ここからが本題なのだが、
講演者のひとりである原一男監督が「生活者」と「表現者」の話をされた。前者は自分の幸せのために生きる人。後者が他人(社会)のために生きる人。「公利公欲」という言葉も出しながら説明された。
私が思うに、誰でもが「生活者」であり且つ「表現者」である。そのどちらの割合が高いか低いかという違いはあるけれど。

トウテムポール作品の登場人物たちも、たとえば宮坂は恋人と一緒に寝食をともにする日々を愛する「生活者」である。その一方、矢野や橘は「映画への泥沼の中でもがく」「表現者」である。
同時に宮坂も、矢野とともにあるうちに映像編集の世界に足を踏み入れた「表現者」の一面を持っている。矢野や橘も、己の幸せとの関係のなかで映像と関わっている「生活者」である(そうでなければ矢野は宮坂と恋人にならないし、橘は有名監督の息子として葛藤することすらそもそも無いだろうし、わざわざ矢野を尊敬してTV映像制作に留まることも無いだろう)。

私はここ数日、彼らのそういう姿にたいへん勇気づけられている。
というのも、私はどのような「表現者」であるべきか? ということが、私の最近の悩みだったからだ。
「生活者」であることを素直に肯定しつつ、生活することのしんどさと愛しさをたっぷりと表現すること。一方で「表現者」として成就するかもわからない希望を抱きながら地味な努力を続けること、烈しい心情を抱えて日々を生きること。そういう態度をトウテム作品から受け取ることが、私の気持ちにも良い薬になった。

原監督の提起を受けて、今私の中でアツいトウテム漫画についてそのようなことを思った。
また、私の2歳年下である奥田さんの仕事ぶりも刺激になった。
……で、改めて、私はどのような「表現者」であるべきか? 未だ結論は出ない。