気が狂いそうでも普通さ

どうも最近調子が、良くない。

いままで自分が前提としていたことを捨てて、考えなければならないようだと感じている。

理由はいろいろあるが、ここでは3点記しておく。
ひとつには、私にとって重要な相談相手の人々に、これからは今までのように接することができないようなのだ。
この5年ほどの間に、就活~卒業~就職を経た。また、イベント運営も行い、ある種の“夢”は叶った。その間、彼らに相談し、指標を与えられ、勇気づけられることが多かった。ときには安心を求めてきた。お陰でやってこれたし、ある種類の自信がついた。

しかし、その彼らに対して相談できる環境というのが、変わっていくらしい。頼りたい時に頼れなくなる。私と彼らは友人であり、家族ではなく他人同士なので、環境や立場の変化によって、そういうことはこれまで何時起こってもおかしくはなかった。依って立つところ、衣食住や経済基盤は別で、どちらかというと趣味や主張の面での同志である場合には、当然、関わり方の変容は、有り得る。

しかし実際、困る。色々と考えなおさないといけない。

次に、近ごろ、職場のなかでの立ち位置の変化が起こっている。一言で言うと私は「中堅」となった。昨年後半~今年にかけて、新しいプレッシャーがかかっている。
自分で覚悟する前に立場が変わって来た、というのが実際だ。充実はしているものの、そのぶん余裕がなくなっている。慣れないことをしている。
私の脳は、ある程度働き続けると、熱暴走したパソコンと同様、寝かせる時間が必要だ。いろいろなことを処理し終える前に翌朝や翌週を迎えるので、消化不良だ。
おそらくこれからも、次々に新しい課題が与えられるのだろう。

最後に、これは抽象的なことだけれども、いままで知らなかったような人生の重みが、少しずつ増して来た。ありていに「しがらみ」と言ってしまえばそれまでだけれども。就活の時のような、行先のない不安とは違う不安。私が生きていることに責任が発生しているという重圧。じゅうぶんな幸せを享けているとは思うのだが、幸せにも重りがついている。世の中の多くの人は、こういう重圧を引き受けているのだろうか。


これらのことを前にして、
私はいま、考える指標を見失っているようだ。
どうしよう。

この土日に考えていたのだけれど、ヒントのひとつ。
いまだに私が憧れていて、かつ遠く感じているものに「批評」や「思想」がある。私がかつて面白い・格好いいと思った「批評」を、私もやってみたい。その気持ちは有る。そして、出来ていない。面白いものを追いかける姿勢は、忘れていないつもりだけれど、私がここでいう憧れの「批評」は、他人に届けるもの。私が他人に届ける術は、未だ無い。
このままで居て、私は「批評」が出来るのだろうか。



ヒバナ連載中の『或るアホウの一生』最新話で、良い台詞があった。
対局に敗れ「一番なりたくなかった普通になってしまう」と精神的にも打ち負かされた林田と、彼と同期である迫の会話。

林田「帰ったらまたいつも通りさ 普通の生活が待ってる。」
迫「普通ねぇ。
 俺からしたら結婚して子ども育てようと思ってるほうが、よっぽど狂気の沙汰だけどな。」
(あっけにとられたような林田の表情)
林田「は
    ははは…」
  「はは

    そうか
   普通なんてないんだねここには。」


何をやっても狂うのが人の一生ならば、後悔だけはしないと誓いたい。