幾度目かの人生

夏季休業最終日の夜、明日からの仕事におびえながら書いています。

お盆の間はほぼ人に会わず過ごしましたが、相変わらず考えがまとまらない日々です。
自分の言葉を残しておくためこの記事を書くこととと、電気を消してとりあえず横になること、どちらが良いのでしょうね?

 

千野帽子『人はなぜ物語を求めるのか』を読んでいます。
そのなかで、<一度生まれの人>と<二度生まれの人>の話がありました。

いま私は三度目に生まれようとしているのかもしれません。
一度目は、産まれてから高校まで。
二度目は、大学、そして某氏との出会い。

「神のために神を捨てる」とか、「消えた佐為はヒカル自身のなかにしか居ない」ということがあるなら、
私もいま某氏にしがみつかず、捨てる時なのかもしれない。

でもそれは、千野さんのいう、「ライフストーリーの編集方針」を、本当に疑うことになるんです。

私は、某氏に出会えてよかったと思った。でもそれは絶対的に良いことではなかったかもしれない。
おかげで今の職場に就職できたし私にとってよかったと思っている。でもそれは良いこととは限らない。
私のことを見守ってくれていると思ったし、本人もそう言ってくれた。でもそれは正しくなかった(私が正しい理解をしていなかったと思う)。

私は成長したと思っていた。でもそれはただの変化で、成長ではなかったかもしれない。それに、成長って良いことなのか分からない。

私は思想を学びたいと思った。でもそんなの私に必要なかったかもしれない。ただただ楽ができれば、それで幸せだったかもしれない。

私は、立派な文章なんて書けない。今書けないし、将来的にも書ける保証はない。むしろそのための努力に欠ける。書く必要があるかどうかもわからない。
もし私の文章が誰かに読まれたり褒められたりしたらとても嬉しいと思うけど、それは私が承認欲求を満たしたいから以外に何かあるのだろうか?

もっと稼げば嬉しいのだろうか?
もっと友達を増やせば嬉しいのだろうか?
毎週良い漫画が読めれば嬉しいのだろうか? 気晴らしができれば良いのだろうか?

こうあるべき、こうありたい、というイメージに、何よりも私自身が合致しない。
私はただただ、頭が重く、寝ていたいだけだ。某氏に愛されたかっただけだ。
思わせぶりな憂鬱を匂わせておいて失恋って、安っぽいって、笑う人は笑えばいい。私だって可笑しいもの。
でも取り繕っても、仕方がない。
今の私にとっては、シンプルに言えばそういうことなのだから。
わざわざ公開しなくていいって、私だってどうしたらいいか分からないのだ。
犯罪じゃないんだからこれくらい許してほしい。

人と出会えることは偶然にすぎない。
友人となれたことも、恋人になれなかったことも、理由はない。
一人の人間と良いようになれなかっただけじゃないんだ、
私は私の、良いと思っていたことや、価値のあると思っていたこと、意味があると思っていたこと、私の思い込みだったんだって知らされたところ。

理由のない世界で、私はこれ以上何を頑張ればいいのか。
千野さんの言うには、諦めること、も選択肢らしい。