今日考えたこと。
・人と人がコミュニケーションをとるとき、互いに全人格的に関わることはできない。
・例えば子どもを産むように、私は言葉によって何かを残すつもりでいる。

 

 ひとつめについて。
 この話をするとき、私は『おそ松さん』の1期23話を思い出している。「もしも皆が顔も言葉も立場も同じだったら、世界には底なしの穏やかさと安心感があるだろう」という話。素晴らしい世界に一旦は安住しそうになるも、最後には外の世界(通常の、誰もが違う人格である世界)へ戻るというお話。
 また、私がこれまで他人とどう関わってきたかということを思い出す。あえて簡単にいえば、私は人とつながるときに「0か1か」がありえると無自覚に思っていたのではないか(少なくとも2016年の秋ごろまでは)。だから今、人間の価値観はそれぞれ違うし、互いに傷つけ合いもする可能性があるということに驚いているのではないか。私が理解できない人間にも彼なりの愛情があり、「わかる」の一言だけで感動を共有できるような友人でも、よくよく聞いてみると互いの感じたことが折り合わないことがある。
 私がそれに気づいていった(昔は気づかなかった)のは、もともと「人格」に対するイメージが貧困だったことが原因のひとつだと思われる。他人の人生や価値観の尊重すべき部分や、その日ごとの機嫌ひとつに表れる「その人らしさ」といったものにまったく無頓着であったのだ。おかげで事故を起こしたわけだが。その事故の教訓のおかげで、私は「全人格的な関わり」を信じることが無邪気なことだと思うきっかけを得たのだった。
 思うに、大学生の頃に私は「底なしの穏やかさと安心感のある世界」を信じていたのではなかったろうか。それは幸せなことであったし、必要なことであったが、今私は自分が変わる必要性を感じている。

 ふたつめについて。
 一年前、二年前と比べて、私の感受性は増幅していると感じる。また六年前と比べて人生の可能性はある程度狭まっているだろう。
 言いたいことはふつふつと煮詰めてはいるのだが、それを表現するという気概が貧弱である。べつに誰にも求められていない、私が生活に満足し、消費を続けるだけで文句は言われないはずだ。だのに今日のように脳のどこかの具合が悪い日は、満たされない気持ちがある。私のことをいつか言葉にして残していきたい、価値を証明したい、そうすることで報われる気がしている。

 

千野帽子『人はなぜ物語を求めるのか』は、一年半ほど前から心に留めている本で、私自身がどのように人生を解釈するのかということを投げかけてくれています。